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わくわく、どきどき、台風の目。

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2014年3月の記事

2008年3月31日 キンちゃんの淡島~大瀬崎間 3-way solo swim

 この詳細は当ブログ「キンちゃんが行く」Vol.17をご覧ください。

  • 1st leg: 06:32 淡島 ⇒ 09:16 大瀬崎 2時間44分
  • 2nd leg: 09:16 大瀬崎 ⇒ 13:41 淡島 4時間25分
  • 3rd leg: 13:41 淡島 ⇒ 17:08 大瀬崎 3時間27分
      記録: 10時間36分

天候: 雨時々曇り
気温: 7.2~10.4℃
水温: 16.0~16.8℃
波高: 0.5~1.0m
風向・風速: 主に東南 2.1~7.4m/sec
流向・流速: 主に西 0.0~0.5kn
ピッチ: 63~67回/min

今回はデジカメを忘れました。したがって写真はすべてケータイから撮ったもので、映りが悪いです。ごめんなさい。

080331_063100 大好きな船頭さんと

080331_063131 行ってきます!

080331_063228 淡島をスタートです。

080331_091825 早くも大瀬崎の折り返し

080331_105748 アップ

080331_134111 淡島の折り返し

080331_160402 富士山が応援しています!

080331_160505 力泳中

080331_160654 アップ2

080331_170848 大瀬崎到着!

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(24/38)

24・マンハッタン島を泳ぐ

P1010427 夜明け前のマンハッタンのビル群

 8月10日(土)、昨夜は早々と床に就いた割には寝付かれず、悶々として夜を過ごす。昨夜の寝床ローテーションで私はダブルベッド、最高の場所のはずなのに眠れない。やはり明日の大会に思いが行ってしまい、あれこれと考えて気持ちが高ぶっているためだろう。オー先生、石井先生も同じようにゴロゴロと寝返りを打っていた。それでもじっと目を閉じていると、いつの間にやら浅くではあるが眠りについていた。何度か目が覚めてトイレへ行く。そして又横になるを繰り返しているうちに、起床時間の午前4時になった。起きる私を待っていましたと言わんばかりに石井先生、オー先生も起きてこられた。オー先生は「僕は全然眠れなかったよ」と言っていた。昨夜買っておいたサンドイッチ、ジュース、牛乳で軽い朝食を済ませ、5時にはアパートを出る。会場の集合時間は“7時15分”となっているが、『遅れるよりは早めに行く方が良い』と考えていた。

P8100438 朝日を受けて光輝くハドソンリバーのビル群

 朝が早いのでタクシーが『掴まるかなぁ~』と心配していたが、運よく直ぐに乗れた。「ラッキー!」と言うべきか? 行先を告げると早朝の空いている道路を物凄いスピードで目的地に向かって走り抜けて、“アッ”と言う間に集合場所の「ピア25」に到着。5時半だった。後2時間もこの場所で待つことになった。時間が読めればもっとゆっくりアパートを出て来たのだが、『まぁ~、仕方ないかな』とも思う。

P8100445 ハドソンリバーを通過する大きな客船

 ニューヨークの摩天楼には明かりが灯り、薄明るくなった空にそびえ立っている。ビルの写真を撮ったり、海を眺めたりしながら時間を潰す。朝方の海を見て気が付いたのは、いつも海面が上げ潮一杯の海面だったが、今は海面がかなり下がっている。この状態を見たのは初めてだった。やはりニューヨークでも干満の差は有ったのだ。今が一番海面の下がった時間帯のようだ。集合時間の午前7時を過ぎたころは海面も大分上がってきていた。

P8101031 水面のあった位置と水面とで干満の差がわかる

 6時半頃にやっとNYCの事務局のスタッフが来て、会場の設営を始めた。スタッフは少ないようだがボランティアと思われる若い男女が来て、責任者に指示を受けながら会場作りを始めた。選手たちは中々集まって来なかったが、私たちが座っている直ぐ側にそれらしき男性2名、女性1名の人が来た。大量の水と大きな荷物、オー先生が女性スイマーに声を掛けた。やはりそうだった。すかさずオー先生は土産に持参していた相撲の絵の描かれたタオルを渡していた。彼女たちのチームは4人リレーで優勝したと後のパーティー会場で聞いた。

P8101032 優勝したというチームの女性スイマーらと

 我々のチームメンバーの女性陣、陽子さん、キンちゃんは7時過ぎに来た。石井先生が今日は我々のボートには乗れなくなり、ボランティアで他のボートにオブザーバーとしてこの大会に参加することになってしまった。これは石井先生にとっても我々にとっても非常にショッキングな出来事であり、それが分かった昨日から今大会に対する情熱が一気に冷めてしまった様子が、石井先生の態度からありありと分かる。この件に関しては後程語ることにするが、陽子さんは石井先生と顔を合わせても挨拶も出来ないと悩んでいた。

P8100447 三々五々集まりだしたスイマーたち

P8100451 リレーメンバー(左から私・オー先生・キン・陽子)

 次々と選手たちが集まり出し、会場の設営も整い選手の受付が開始された。選手確認のIDカードを事前に用意するように陽子さんから言われていたのでパスポートのコピーを提示。チェックを受けて両腕にNo.12のゼッケンを黒のマジックインキで書かれた。ここで初めて我々のチームナンバーを知った。今回は18チームがエントリーしていることも分かった。

P8101036 スイムキャップをもらい、両腕にゼッケンを書かれる

 外国人の身体はデカイ。体格は私の二回りぐらい大きい。選手が乗るボートが浮桟橋に次々と到着して弥が上にも気分高揚してくる。ボートには2番目以降に泳ぐ選手とオブザーバーが乗り込次々に出航して行く。一番先に泳ぐ私は他の選手と一緒に浮桟橋に残され再度、チェックを受けた。他のグループの選手を見ると若いしデカイし圧倒される。女性も3名ほどいた。20分くらい待たされただろうか? やっと全員が揃い、スタート地点へ向かう大きなゴムボートへ乗る。

P8101052 第一泳者は浮桟橋に残される

 ボートの中で再度、操縦士が説明をしていたが何を言っているか私にはさっぱり分からない。ボートが動きだし、スタート地点のバッテリーパーク前に移動する。バッテリーパークに近づいた所でカヤックが何隻か浮かんでいた。そしてここで海に飛び込めと指示されたようで、皆一斉にボートから飛び込み出した。私も皆さんの後に続いて海へ入る。18名のスイマーが一塊になりボートの側で浮かんでいる。するとそこへカヤックが近づいてきた、今回のレースでスイマーのサポートをしてくれるカヤッカーたちだ。

P8101054 第一泳者はゴムボートでピア25からスタート地点のバッテリーパークへと向かう

 カヤッカーはゼッケンナンバーを付けたチョッキを着ている、私は12番なので探しているが中々見つからない、やっと12番のゼッケンを見つける事が出来た。しかし、そのカヤックを見てビックリ、ポリエチレン製で全長が短く軽そうで非常に不安定な形をしているカヤックだったのである。『大丈夫かな?』と心底心配になったが今更どうしようもない。他に3隻ほど同じようなカヤックが有った。ようやくカヤッカーを見つけて私が手を振ると、相手も分かったようで手を振ってくれた。心配していたカヤッカーとの対面は何とか出来たがスタート前であり、しかも水の中お互いに挨拶も打ち合わせもままならず、スタートの合図を待つこととなった。海面は岸壁からの返し波で三角波が立ち非常に泳ぎ辛い状況である。海の中で15分くらい待たされたであろうか? やっとカウントダウンが始まり、ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン、ゴー、の合図で一斉にスタート、いよいよニューヨーク、マンハッタン島1周リレースイムが開始されたのである。

Img_0107 我々チームのサポート船「TAZ」

空(Sky):ライヴの告知

 中学時代に結成したエレキバンドが、今も“親父バンド”として継続していることをこのブログの何処かで書いた。そして年に一度、「ワールドツアー日本公演」としてライヴスペース“キャバリーノ”(埼玉県川口市)で行っている。そして今年は5月17日に同じ場所、“キャバリーノ”で行われる予定だ。
 ライヴ中は毎年、その年に行った遠泳の報告などを私がしゃべる。今までは秋が多かったのでそれも可能だが、今年は5月なので遠泳の報告をしゃべるわけにもいかない。そこで、「空(Sky)というお題でトークしろ」とあいなった。
 去年のライヴのテーマは“映画音楽”。それに続いて今年は“空”というテーマ。まあ何とか原稿は書いて仲間にも承諾してもらった。内容はまだライヴ前なので公開するわけにはいかないが、“空”を多角的に捉えた内容だ。

 イメージとしては昔、深夜によく聴いていた“ジェットストリーム”の城達也のようにしゃべりたかった。

 それを仲間に話すと、
仲間「お前なぁ~、オレはいつも“よくそういう発想が出来るな”と感心するんだよ。自分の実力を知っているか? 城達也のようにとか、、、まったく聞いて呆れるよ」
と言われてしまった。
 でもさあ~、イメージくらいイイじゃないかなぁ~・・・。いちおうは途中から星空の話になるんだけど、そこでは仲間にBGMで「スターダスト」を流してもらうつもり。これも承諾済み。

 もし、「そのライヴに行ってみたい」という変わった方がいたらこのブログのコメント欄に書き込んでいただきたい。詳細をお知らせします。その際、コメント欄の上にあるメールアドレスを忘れずに書き込むこと。(詳細をお知らせできなくなるので:それらが公開されることはありません)
 ちなみに、絶対に期待せずに参加すること。ま、言うまでもないかな・・・。

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(23/38)

23・現地視察

 8月9日(金)大会前日である。娘からメールが来た。美容師の国家試験で実技試験が昨日実施されたそうであるが、今一不安が残る結果だったとのこと。次は学科試験が9月にあるので“それに向けての勉強が大変だ”と書かれていた。結果は実技、学科とも見事合格で、10月に家族で合格祝いをしたのである。実に良く頑張った。流石私の子どもだと思った。
 石井先生、オー先生共に8時過ぎに起きてきた。やはりよく眠れなかったのだろう。今日の予定はマンハッタン島一周レースのスタート地点「ピア25」の様子を見に行くのと、午後2時過ぎに陽子さん、キンちゃん達と会食をしながらの打ち合わせ。今回参加の女性陣は昨夜ニューヨーク入り。しかも宿泊場所は別々。チームワークとしては非常に問題であるが、種々事情があり、『止むを得ない』と思った。が、これが後々非常にまずい結果となった。
 オー先生が綿密に地下鉄、バスの乗り方等を昨夜調べておいてくれた。先ずはタクシーで近くの地下鉄駅へ。そこからピア25に一番近い駅で下車。徒歩で現地へ行くである。ピア25の桟橋がスタート、ゴール地点になるそうである。

P9080329 大会集合場所のピア25の案内板

 ピア25はかなり大きな桟橋で、左側にボートなどが停泊出来るように浮桟橋が作られていた。小さな公園もあったしミニゴルフ場なども見えた。そこからバッテリーパークまで周囲を散策しながらのんびりと歩いて行くが、オー先生が心配だった。足が悪いからだ。だが何とか頑張って歩いて行った。
 彼女たちとの会食が14時だったが、少し早めにタクシーで宿泊場所のウォール街へ向かった。世界の株式市場の中心になるのだろうか? 名前は良く聞くウォール街、新しいビルと古いビルが混在している街並みだった。観光客も非常に多いところだ。彼女たちが宿泊しているホテルの裏側には道路を閉鎖して、テーブルと椅子が沢山並んでいる場所で喉を潤す。テーブル数を数えたら100列以上並んでおり、夫々お気に入りの店の前のテーブルに座り、昼食を食べていた。ウォール街なのでワイシャツ、ネクタイ姿の青年も多く見かけた。我々と同じ観光客も沢山来ている。集合予定の時間になり、陽子さん、キンちゃんが姿を見せた。2人に会うのは3月の結団式以来だった。キンちゃんはドーバークイーンと言われた時に比べて普通の体形に戻ってしまい、金太郎のイメージはすっかり影を潜めてしまっていた。陽子さんは全く変わっていなかった。

P9080372 ウォール街にある路上のカフェ?

 食事は彼女たちが泊まっているホテル前の中華料理店へ入った。私にはここの中華は味がとても濃く感じた。
 今回の大会参加では、陽子さんには大変お世話になってしまっている。昨夜オー先生からルール等についての説明が有ったが、やっと全員揃ったので、改めて陽子さんから説明を受ける。トップバッターは私で、ピア25から第一泳者のみボートに乗り、バッテリーパーク前まで行き、ボートから飛び込んでのスタートとなる。そしてイーストリバーの橋3つ目まで泳ぎ、そこで第二泳者と交代。最初のルールでは40分交代とあったが、時間に関係なく、ともかく3つ目の橋まで泳ぐそうである。カヤックとの対面は当日、水中での対面だそうで、うまく対面出来るかどうか、非常に心配だった。

P9080380 今回のリレーチームメンバーのキンと陽子

 第二泳者も指定場所の橋の下まで泳ぎ、第三泳者まで指定場所の橋の下まで泳ぐ。第四泳者は45分、それ以降からは30分交代となるそうだ。最後はピア25前では交代なしでゴールまで泳ぐ事になるとのこと。最初のルールとは大分様子が変わってきた。そして最大の誤算は石井先生が我々のボートに乗れなくなったこと。我々の乗るボートキャプテンは石井先生の乗船は良いと言っていたのだが、ルールでは選手以外は認めないとのこと。そしてオブザーバーが1名乗るとも言っていた。交代時間も自分たちで管理するそうだ。細かいところでルールが色々と変わってしまっている。石井先生が我々のボートに乗れないので、石井先生はボランティアでオブザーバーとして他の船に乗ることになってしまった。石井先生は口には出さないが、大いに不満だと感じた。何のためにここまで一緒に来たのか分からなくなる。何故、そうなってしまったのか????

P8101020 前日にやっと全員集合、最後のミーティング

 1時間ほどで食事を終えて彼女たちと別れてブラブラと地下鉄の駅まで歩く。ウォール街の中心地なので観光客が非常に多い。帰りは地下鉄に乗ったが急行だったようで、私たちが下車する一つ先の駅で停車。そこからバス停まで歩いて戻り、8番のバスに乗ったがほぼ真っ直ぐに私たちの泊まっているアパート近くまで来た。近くのマーケットに寄り、明日のレースに備えて水、食品を購入。アパートに戻ったが、陽子さんから頼まれていたノートを買い忘れたので大きなスーパーマーケットまで行った。しかし食料品が主体のマーケットなので見当たらず、何度も店内を行ったり来たり探し回った。細かく各陳列棚をチェックしていたらやっと小さなブースにノートが3冊だけ。それから石井先生に頼まれたマジックペンもあり、ホッとした。
 昼食を食べた時間が遅かったので夕食はなし。カロリーメイトで私は済ませる。明日のレースでのカヤッカーに分かるようにと水着姿になり、写真を撮って陽子さんへメールで送る。明日にレースを控えたこの土壇場へ来て石井先生はすっかり白けてしまったように見える。
 陽子さんなりに一生懸命NYC事務局の通達を見て、更に質問などをしたのだろうが、何とも重苦しい雰囲気となってしまった。明日は4時起床、5時出発の予定。大会は7時15分集合となっていたが、何かと時間が掛かるので早め、早めに行くことになったのである。

P9080405 ウォール街に中心地に建つ誰かの銅像

2009年3月26日 キンちゃんの淡島~大瀬崎間 2-way solo swim

 この詳細は「キンちゃんが行く」Vol.25をご覧ください。

  • 1st leg: 淡島 07:32 ⇒ 大瀬崎 10:45 3時間13分
  • 2nd leg: 大瀬崎 10:45 ⇒ リタイヤ(悪寒) 12:32  1時間47分
       合計=5時間00分

概況:天気 晴れたり曇ったり、時々雨
   視界 午前中:10海里 午後:20海里
   風向 主に南
   風速 2.6~8.5m/sec
   気温 3.6~12.6℃
   水温 13.5~14.0℃
   波高 0.5m
   ピッチ 66回/分
   流向 主に西
   流速 0.0~0.3kn

P3260002_2 大好きな船頭さんと

P3260003 行ってきます!

P3260004 淡島をスタート!

P3260006 虹の架け橋に向かって泳ぎます!

P3260007 アップ

P3260010 大瀬崎の折り返し

P3260014 どアップ

P3260017 力泳はしたのだが・・・。

P3260018 お腹いっぱい!

P3260019 お母さんに甘える・・・。

P3260020 アハ~

P3260021 フニ~

2006年3月26日 キンちゃんの海練習(千本浜)

 3月26日(日)、静岡県沼津市千本浜において、海練習を行いました。
 天候は晴れ。水温14℃。気温14℃。南から東にかけて、海上では風速10m/sの強風が吹いていました。
 ただ波高が1mだったのが助かりました。
 海草が多く、泳ぎづらい部分もありましたし、カイトボードが異常接近して怖かった部分もありましたが、それはそれ、存分に楽しんできました。
 やはり寒いです。

P3260002

3月18日 病は気から?⇒マナーが無くなりつつある高級(?)レストラン

 火曜に定休日をいただいている私はこの日、病院へ行くことにした。花粉症が酷いからである。マスコミによると「今年は花粉の飛散が少ない」と言っていたが、『何を見てそう言っているのだろう?』、そう思うくらい私にとっては花粉症の症状は重かった。
 通院は半日仕事、ようやく私の名前が呼ばれて診察室に入るとドクターは首が回らないようだ。
私「先生、首が悪いの?」
医「ああ、頸椎○×(←名前を忘れた)症で首が回らないんだ」
私「良かったね、借金じゃなくて。イイ先生知っているから紹介しようか?」
と言うと、看護師さんも含めてみんなで大笑いをした。
 結果、
医「そんなに酷くないよ。点鼻薬を出すから・・・」
で終わってしまった。内服薬も言われたのだが、「眠くなるから」と私の方から断ってしまった。

 周囲の花粉症の人の話では、「注射が効く」とか「何とかと言う薬が効く」とか聞いていたので注射でも打たれるのかと思っていたが、そんなことはまったくなくて、点鼻薬だけ・・・。
 点鼻薬を私は「鼻シュ、シュ」と呼んでいる。そしていつも市販の鼻シュ、シュを買っていた。それは安売りのドラッグ・ストアに行くと一つ700円くらい。普通の薬局店に行くと1,000円以上する。ところが病院からもらった鼻シュ、シュは500円。まあ保険が利くから安くなるのだが、待ち時間がないなら病院でもらった薬の方が安くて良い。
 ところがこの病院からの帰りに不思議なことが起こった。それは医師から「たいしたことはない」の一言で何とも気が楽になって、花粉症まで楽になったことだ。どうしてだろう???
 この日、東京では“春一番”とかで午後から強風が吹き荒れていた。気温は20℃くらいと暖かく、花粉の飛散は最も多くなっているはずなのに鼻は楽なのだ。(眼はカユカユで酷かったが・・・)
 やはり病は気からなのだろうか? 今度、眼科に行かなければ!

 病院の帰り、気が楽になった私はビールを飲みに行くことにした。何故ならば今日は休みだし、16日の日曜日にバンド練習日と間違えてスタジオに行き、練習がないと知って帰りにビールを飲みに行ったが、あまり雰囲気の良い店ではなかったからだ。新宿(東京)に“隠れ家”的なビアホールがあって、そこに行くことにした。

 安い赤ちょうちんなどに行くと、中堅サラリーマンが大声で上司の悪口、部下への文句を言っている。とにかく声が大きいので聞きたくなくとも聞こえてくる。おそらくその中堅サラリーマンは『自分が一番正しい』と思っているのだろう。まあ何を言っても構わないのだが、もっと小さな声でも正面にいる人には聞こえると思う。自分が一番正しいと思っている中堅サラリーマンに周囲への配慮がない。それが私は気に入らない。

 その点、新宿のビアホールにスーツを着た人は少ない。平均年齢も少し高めかな? とにかく大声で罵声を飛ばす人が居ないし、お客さんの表情が朗らかなのが良い。店員さんも気が利く方ばかりで気持ちが良い。・・・と、過去はそうだった・・・。
 ところが何年振りかで訪れたその店は、私の隣にいた私より高齢だと思われるスーツを着た紳士が大声でケータイと話していた。以前だったら、そのようなお客さんが居ると店員さんが気を利かせて外で会話をしてもらうのだが、そのような注意をすることもなくなっていた。もうガッカリ・・・。中ジョッキ一杯飲んでその店を出てきてしまった。もう行かないだろう。

 それにしても昨今の“常識”というのは何処へ行ってしまったのだろう・・・。最近は若者じゃなくとも電車の中で平気で大声のケータイ会話をしている。普段、あまり電車に乗らない私だが、人から聞く電車の中の風景がそのまま私の目にも映っている。
 そういえば、今月の初めにちょっとお付き合いがあって銀座の高級レストランに行った。その時も“女子会(?)”と言うのか、“女子”と言うには憚る年齢の女性五人組が、それはそれは大声で話していた。何と言っても我々のテーブルの3つ先のテーブルに座っている彼女たちの話声が包み隠さず聞こえてしまうのだ。
 店員さんが時折言いに行っているようで一瞬静かになるも、時期に大声になる。耳が遠くなるにはまだまだのような年齢に思えるが、とにかくその大声は私たちの楽しいはずである食事の味まで奪って行ったように思えた。

 こんなこと書くから会社から、家庭から、社会から煙たがれるのかな? でも病んだ社会はおかしい。病は気からだが、それは気が付かないと治らない。自分から『病院へ行こう(気付いて“治そう”という意識を持とう)』と思うのだ。

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(22/38)

22.プールへ泳ぎに行く

 8月8日(木)、未だ時差ボケが解消出来ず、私としては珍しく昨夜は11時過ぎまで起きていた。この時間でも石井先生は相変わらずパソコンに向かって何やらやっている。遅くまで起きていた為か、昨夜はシッカリと睡眠が取れたようで、朝の目覚めは割合とスッキリしていた。
 今日はプールへ行くことになっている。昨日の残りのパンなどで朝食を済ませ9時30分過ぎにアパートを出た。タクシーで地下鉄駅まで行き、地下鉄を利用して目的地の137 ST駅まで行くことにした。ご存知の方も多いとは思いますが、マンハッタン島は南北に細長く、東西はイーストリバー、ハドソンリバーに挟まれて狭い。この島の中を碁盤の目のように十文字に道路が走っており、縦方向の道路は比較的広くAV(アベニュー)と命名され、マンハッタン島の東側(イースト)から1 AV,その東側はAV・A~AV・Dとなっている。1 AVから西方向へは2、3、レキシントンAV、パークAV、マジソンAV、と命名されていて、有名な5番街は5 AVと命名されている。横方向の道路はST(ストリート)と呼ばれており、南側から1 STで始まり、北部まで215 STの名称がついている。但しSOHO駅から南側の道路は碁盤の目のようにはなっておらず、とても分かり辛い。どうしてそうなってしまったのかは分からないが・・・・・・。

P1010278 ニューヨーク市警のポリスに道を尋ねる石井先生

 タクシーに乗ると運転手は必ず行先の住所を聞いてくる。道路が碁盤の目のようになっているので、住所を言うと直ぐ分かるようだ。最初はそれが分からずに、道路に立って「ヘイ・タクシー」と声をかけていた。しかし、何処へ行きたいのか予め調べておき、タクシーを捕まえる時、行先に向かって走る道路で捕まえると、すんなりと目的地まで運んでくれて料金もそれなりで済む。オー先生は足が悪いのでタクシーを利用することが多く、予めマンハッタン島の地図をしっかりチェックして覚えてしまったようだ。大きな通りに出てタクシーを拾おうとするが、通過、通過で中々捕まらない。30分ぐらいは待っただろうか? 運よく直ぐ側で降りた客がいて、やっと乗れた。

P8140106 チャイナタウンで日本食品を売っている東京市場の店

 地下鉄駅に近い番地を言うと、ほぼ直線で目的の地下鉄駅の近くまで走ってくれた。上手くいった。「やった~」という感じである。地下鉄はメトロカードを利用するのだが、先日買った石井先生のカードは未だ残金があるはずなのに、エラーアラームが点灯して入場出来ない。そこで又、新しくカードを購入。オー先生は駅構内に係員のいる事務所の様な所で現金で購入されていた。日本の鉄道では駅名と同時に前後の駅名も必ず表示されているが、このニューヨークの地下鉄ではそこの駅名だけで前後の駅の表示は一切ない。でも駅名はST名が駅名なのでとても分かり易いかもしれない。

P1010307 プールの最寄り駅137 ST駅

 地下鉄はイースト側にある①番線の地下鉄で137 ST駅下車。ここまで北上すると、「ここもニューヨーク?」と思わせるほどのんびりとした街の風景で、何処かの田舎町といった感じがした。でもここは間違いなくニューヨーク、摩天楼が一つも無いし高台になるようだ。かなりきつい坂道を下り、ハドソンリバーへ向かう。プールのある場所は、公園というよりスポーツ設備の整った総合グランドだった。アンツーカーの立派な陸上競技場ではちびっこランナーたちが走っている。プールはそのグランドの横にあった50mの室内と屋外の25mプールだと思っていたら、屋外は25ヤードだそうである。プールへ入るにはロッカーの鍵が必要と言われた。「何故??」ロッカーには鍵が無いので各自が用意するそうだ。入口で鍵も売っていたのである。これには我々全員「?????」。おまけにロッカーの小さいこと、小さいこと。その中に3人分の持ち物を無理やり押し込んだ。

P1010308 ニューヨークとは思えないのどかな街並み

 オー先生がネットで調べたとところによると、室内の50mプールで泳げることになっていたのだが、実際には真ん中で仕切られており、50mは泳げなかった。泳ぎ出して直ぐ12時の休憩時間になってしまいプールから上がる。休憩時間内にコースロープが外されてしまいフリーコースとなって、外のプールで遊んでいた子どもたちがドドッと入り込んで来て遊びだした。多分外のプールは寒かったのだろう。止む無く我々は外プールで泳ぐ事にした。水温は24℃、外気温も同じくらいだろうか? 外プールでも何人かの子どもたちが遊んでいたが、構わずガンガン泳ぎ出す。水温が低いので汗も出ず、とても気持ちよく泳げる。

P1010312 プールのある総合グランド

 石井先生が「このプールは25mも無い」と言っていたが、私はあまり感じなかった。オー先生が監視の人に聞いたら「25ヤードだ」と言っていたそうである。
 1時間ほどで2,500ヤード泳いだ。ロッカールームに戻り、鍵がうまく開かずに監視の人を呼んで開けてもらった。石井先生はこの鍵がえらく気に入って「どうしてももう一つ欲しい」と探したが、中々見つからなかった。しかし、ハーレムの方のアパートに移った時にやっと手に入れた。私も記念に一つ買った。
 昼食を駅前のレストランで食べた。私はチキン定食を注文したのだが、チキンの大きいこと。ご飯はいわゆる外米でポソポソしており美味しくないが、腹一杯になった。

P1010315 プールの帰りに寄ったレストラン

 帰りに又「チャイナタウンへ行こう」とオー先生が言い出したので、地下鉄で向かう途中、乗ってくる人が雨に濡れているのを見て止めることにした。
 地下鉄を降りてアパートまでタクシーを使ったが今度もうまく安く帰れた。
 雨は既に上がっていた。行き掛けに頼んでおいた洗濯物を受け取りに行き、更に、明日の食料品を購入してアパートに戻った。
 夜は軽く素麺で済ませる。食後に私は明日の野菜サラダ用の野菜、果物、ヨーグルトを買いにスーパーまで買いに行った。夜8時過ぎだというのに未だかなり明るいのである。
 石井先生とテーブルで話していたが、今話していたと思ったら、もういびきをかいて眠ってしまった。最速睡魔~だ!! 石井先生の奥さまにもよく言われるそうだが、全くその通りでビックリ仰天、フル回転の驚きだった。
 今日の昼間、泳いだので疲れが出たのか、オー先生も8時過ぎには横になってしまった。
 ハプニング? 私が9時過ぎに風呂に入っていたら、石井先生がトイレに来た。「アッ!」と先生はビックリした様子だったが、私が「どうぞ」と言ってカーテンを閉めて浴槽に入っていた。が、しばらくすると先生のいびきが「スーハ―・スーハ―」と聞こえてきた。便器に座ったまま眠ってしまったようだ。15分くらいすると「ウウゥゥ~~ン」と言って目が覚めたのか、水を流して出て行った。よほどお疲れのようだなぁ~~と思った。
 今夜の寝床のローテーションは、石井先生がベッド、オー先生が簡易ベッド、私はソファー。でもオー先生は「簡易ベッドの幅が狭い」と言って、マットレスを床に敷いて寝ていた。確かにその方が腰の部分は安定するかもしれない。
 翌朝、オー先生に「具合はどうでしたか?」と尋ねたら、やはりマットレスが薄いので「身体が痛かった」と言っておられた。やはりベッドを組み立てて寝た方が良さそうである。
 昨夜はオー先生が「あまり良く眠れなかった」と言っていた。私は夜中1時ごろに目覚めてトイレへ言った時、テーブルで何やら書き物をしていた。陽子さんからのメールで明日、レースのスタート地点の確認と、ルートを調べて欲しいのこと。それから「昼食をレストランで一緒に食べましょう」と連絡が有ったので、アイパッドを使って「調べている所だ」と言っていた。更に4時ごろ目覚めると、今度は石井先生がパソコンを開いて何やらキーを叩いていた。二人とも眠れなかったのかな? 石井先生は速攻睡魔だから多分、2度寝ぐらいしているから大丈夫だとは思うのだが? オー先生が少々心配かな?

Img_0483 プールで購入したダイヤル式の鍵

3月16日 そそっかしい⇒変わりゆく東京の下町

 最近は頭がボケてきたのか、物忘れが多い。それはいつだかのこのブログで公開したように思うが、いつ公開したのか、もう記憶がない。それは大学4年生の頃に初めての海外旅行、初めて本物の飛行機(遊園地の飛行機ではない)に乗ってマレーシアに行き、マラッカ海峡を泳いだ記憶はもう40年前なのに、まるで昨日のことのように覚えている。ところが昨日のことは、ほとんど覚えていない。まったく“記憶”というのは頭の中でどういう構造になっているのか、一度かち割って中を見てみたいものである。そしてその構造に配線の誤りがあれば半田鏝を持って直してやりたい。。。。まあ半田鏝で直るようなら良いのだが、実際はホントに“ボケ”だからどうしようもない。

 これも当ブログの何処かで紹介しているのだが、記憶がないのでリンクを張ることが出来ない。まあ中学の頃から結成しているエレキバンドのことである。
 中学を卒業する謝恩会で演奏をした後、メンバーはバラバラになって、メンバーが40歳を過ぎた頃に再び集まった。そして再びバンド練習を始めたのである。それでも最近は集まれるメンバーも決まってきて、元のメンバーのユニットバンドとして活動するようになった。
 そうそう、来月(4月)にはバンドの旅行があって、久々に全員が集合する。それは楽しみである。

 今から10年くらい前からだろうか、「ただ練習しているだけでは面白くないよね」ということになり、名前だけは「ワールド・ツアー」と言いながらも年に一度しかやらない“日本公演”をやるようになった。いわゆる“ライヴ”である。
 今年も5月にそのライヴ、ワールド・ツアー日本公演を埼玉県は川口市という、これまたローカルな場所で行う。その練習が最近は多いのである。

 本来なら日程は私のスケジュール帳を見なければならないのだが、3月16日(日)は朝から『今日は練習だ』と勝手に思っていて、午前中の仕事を終えてから急いで家に帰り、電車に乗って北区にあるスタジオへ。
 電車で行くのは練習後に「反省会」と呼ぶ、ちっとも反省しない飲み会があるからで、ある意味、普段クルマで移動している私にとって、それは新鮮な嬉しさで、電車に乗るのも一つの楽しみであった。
 ルンルン気分で電車に乗ってスタジオに着き、意気揚々と「おはようございます(スタジオでは朝以外でも“おはようございます”と挨拶をする)」と大きな声で挨拶すると、受付のお兄ちゃんが「あれ? 今日は入っていませんよ」と言う。
 「エエエエエ!!!!」とiPhoneのスケジュールを調べると、「来週じゃーん!」。(その声と同時に)「来週ですよ」と受付のお兄ちゃんがスタジオ予約表を見ながら教えてくれた。
 しまった。やはりスケジュール帳を見てこなければ、、、、記憶だけではダメだなと思った。

 行きは意気揚々、帰りはトボトボと歩く。それでも『せっかく電車で来たんだ。ビールでも飲んで帰らなくっちゃ』と、“途中下車の一人飲み会”をすることにした。
 バンドメンバーと「反省しない反省会と言う名の飲み会」はいつもスタジオに近い駅前の安い飲み屋さん。だが、時折、ちょっと値段は高めだが、雰囲気の良い飲み屋さんに年に一度くらい私は行くことがある。そこはあちらこちらにあるのだが、両国(東京)のパブに行くことにした。
 両国は国技館が駅前にあって、相撲がある時は大変な混雑になるのだが、今は場所中でも大阪場所だから問題はない。また両国のパブはイギリス式で、ドーバーのパブを彷彿させるものがあり、何となく好きな飲み屋さんだった。

 ところがところが、一年ぶり以上で訪れてみると店は内容が変わっていた。パブではなくなり、いわゆる普通の駅前レストランになっていた。がっかりである。
 しかし両国にはもう一つのビール専門の飲み屋さんを私は知っていた。そこは何年ぶりだったか、、、道を歩いていくと『この道かな?』と思うほど周囲の景色は変貌していた。
 『たぶんこの道だ』と思うとおりに歩いて行ったのだが、結局、目的の店を見付けることは出来なかった。
 仕方なく駅前のファミリーレストランに入ってビールを飲む。まあそれは安いからで、気分的には満足のするものではなかった。
 まあ原因はそそっかしく練習日を間違えるからで、それでも両国の変貌はスゴク、世の中はどんどん変わっていくのだなぁ~と思った。

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(21/38)

21.ニューヨークの街を探索

P8070118 やっと落ち着けたアパートの部屋

 今日は8月7日(木)日本からアメリカへ来ると時間が13時間逆戻りなので日付が分からなくなる。朝食は昨日調達した食パンをメインに野菜サラダ、スクランブルエッグ、ハム、チーズで済ませる。今日の予定はマンハッタン島1周クルーズの観光船に乗って、今回泳ぐイーストリバー、ハドソンリバーの下見することになっている。観光船の発着場までどのように行くか? オー先生が色々検討した結果、地下鉄で行くのが良さそうだとなり、昨日買い物をしたスーパーの近くに地下鉄の駅があるのでそこまで、街を散策しながら歩いて行った。しかし、ここで思わぬ落とし穴が? 地下鉄に乗るのは切符ではなく「メトロカード」なのだ。そしてそれを購入するには現金ではなくクレジットカードでなければ買えないとのこと。カード発券機の前でもたもたしていたら親切な女性が購入方法を教えてくれ、何とかメトロカードを手にすることが出来た。

P1010295 メトロカードを購入する石井先生

 カードを手にしてやっとこさっとこ地下鉄のホームへ降りたのだが、何とこれが我々の向かう方向とは逆のホームだった。止むを得ず又、改札を出て反対側のホームへ行くのだが、今度はメトロカードが改札機で受け付けてくれない。どういう事? 訳が分からない?? カードの購入金額は1枚$9だった。これを3人で使用したので、どうも残金がゼロになってしまったようだ。全く乗ってもいないのに大失敗。オー先生が10時の出航に間に合わなくなるからタクシーで行こうと提案された。止む無くタクシーに乗ったが、これも多少回り道をされて料金をぼられたように思う。地下鉄の駅から真っ直ぐに走ればそんなに距離は無いはずなのにと思ったのだが・・・・。しかし、今考えると、ニューヨークの街は一方通行の道路が多い。それを最初は全く知らないでタクシーを捕まえていた。なので我々が行きたい方向へ行くために、一方通行の道路を迂回して走っていたのが後で分かった。しかし$50も取られた。でも時間的には何とか間に合ったので良かったが。乗船券は62歳以上が多少安くなるとのこと。パスポートの写しを見せて$28が$22になった。

P1010296 下鉄の改札口付近、鉄格子が何とも地異様な光景

 マンハッタン島1周クルーズは約2時間掛かるとのこと。10時5分過ぎに出航。先ずはハドソンリバーを南下、ニューヨークの摩天楼群を左側に見ながら川を下る。川の水は汚い。でも湘南の海の汚れた時とさほど変わらないかな? と思えば何てことはないだろうと自分に言い聞かせる。川にはひっきりなしに船の航行があり、引き波がかなり影響しそうだ。マンハッタン島の南側、バッテリーパークを過ぎると、イーストリバーと合流して広い海となった。自由の女神像のあるリバティー島周辺は風の影響を受けて、島にバシャバシャと風波が当たっていた。ここを泳ぐ時は風の出ないこと祈る。リバティー島を1周してから又、マンハッタン島へ戻り、今度はイーストリバーへ入って行った。川幅はハドソンリバーと比べるとかなり狭い。水の色は濁っており汚い、でも摩天楼群はとても良く見える。国連ビルが川の側に大きくそびえて見えた。そして橋の数がとても多い。イーストリバーからハーレムリバーへ入ると川幅は更に狭くなり、橋げたも低く、遊覧船はそろりそろりと進んでいた。川幅が一段と狭くなり、川の両側は切り立っている。そこを風が吹き抜けていく。鉄道の鉄橋が90度回転して船の航行を可能にしている橋に出た。ハドソンリバーとの合流地点だ。どうも今通り抜けてきた所はハドソンリバーとハーレムリバーを繋ぐ運河のようなところに思えた。狭かったハーレムリバーからハドソンリバーへ入ると、川の大きさに圧倒されそうな迫力のある川だった。この辺りの川岸は緑に覆われており、島の南側でビルが立ち並ぶところ他は大違いの景色。イーストリバー、ハーレムリバーは橋が沢山掛かっていたが、ハドソンリバーは川幅が広過ぎて橋を架けるのも大変なのだろうか、ジョージ・ワシントン・ブリッジだけだった。後は地下トンネルなのか? ハドソンリバーに入ると船のスピードが一段と上がり、ガンガン下って行く。すれ違った小型ボートが川上に向かって進んで行くが、バンバン跳ねて進んでいた。我々の船から見える川面は穏やかに見えるが、実際にはかなり波だっているようだ。ハドソンリバーを下り、摩天楼群が立ち並ぶ場所へ戻って来た。泳ぐ前に島を1周回って見ることが出来て良かった。

P1010183 クルーズ船から見るマンハッタンのビル群

 遊覧船を降りて、直ぐ隣に係留されている空母イントラ・ピット(太平洋戦争で活躍した航空母艦で退役して一般公開されている)を見に行くことにした。アメリカは例の9.11以降、公共の場所等での検問が厳しくなり、必ず荷物チェックが行われる。かなりの人が見学に訪れて来ている。甲板には色々な戦闘機、ステルス偵察機も展示されていた。それから今は飛んではいないが、超音速旅客機のコンコルドの姿も見えた。空母の戦闘機を格納してあった場所にも色々な物が展示されていた。最初は3人一緒に回っていたが、オー先生が疲れたとベンチで休憩していたので、私は1人で格納庫の展示場を端から端まで見て回った。この空母は日本軍の攻撃を受けてかなり損傷したようだ。そして修理を終えて再び参戦したと資料に書かれていた。

P1010202 自由の女神像のあるリバティー島

 この船のスクリューが展示されていたが、プロペラの1枚の大きさは私の背丈よりはるかに大きい。短時間ではとても回りきれない広さの航空母艦。それでも大きさは4万1千300トン余り。今の空母だと8万トン、10万トンとか、とてつもなく大きいし広い、正に海に浮かぶ要塞だろう。

P1010239 ハドソンリバーに掛かるジョージ・ワシントン・ブリッジ

 空母見学を一段落させて、今度はリトル・チャイナ行こうと言うことになり、ここからどのように行ったら一番良いのか? 近くに居たニューヨーク市警のポリスに石井先生が訪ねた。そして地下鉄を使って何とか目的地に近い所まで辿り着いたが、どうも一駅先まで行ってしまったようで、チャイナタウンまでかなり歩いた。ここへ来た目的は日本から持参した「素麺」用の麺汁を買うため。

P1010258 第2次世界大戦で活躍した空母イントラ・ピットの雄姿

 チャイナタウンは土産物屋さんが多く、中々目的の品物が見つからない。オー先生に目印となる交差点でお待ち頂き、石井先生と私が15分後にここへ戻る約束をして、手分けして探すことにした。大きな通りには屋台で果物などは売っていたが、目的の品物は中々見つからない。日本語で「東京市場」と書かれた看板を見つけ、何気なしに入って見たら、日本食品が沢山並んでいた。やった~~「麺汁」ゲット! その他に日本の調味料品も沢山並んでいた。待ち合わせ場所に戻り報告。再度石井先生と一緒に出掛けて追加の調味料を購入した。今日の天気予報は雨が降るとなっていたが、本当に雨が降り出してきた。タクシー帰る事になり、今度はうまくイエローキャブを捕まえてアパートまでほぼ直線で帰る事が出来た。タクシー代は$25ぐらいで済んだ。石井先生とオー先生はビールを買いに店に寄ったので、私は公園のトイレへ行き小用を足そうとした。先に用を足していた若い黒人が何やら私に言っている。無視して用を足そうとしたら、その黒人の青年が左手で私を制した。どうも待てと言っていたようだ。便器の数は5基あるし、離れているのになぁ~と思いつつも、トラブルを避けるため「ソーリー」と言って彼が立ち去るまで待った。何故なのか良く分からない????
 今日はよく歩いた。疲れたので一休みしたため、夕食は8時過ぎとなった。買ってきた麺汁を使い素麺をかなり沢山食べた。オー先生は素麺を茹でるのがとても上手である。
 今日はテレビでよく見る二ューヨーク市警のポリスを間近で見られたことが、私としては大きな収穫だったかな? 勿論、マンハッタン島1周クルーズは非常に参考になったが・・・

寄付って(津軽泳の費用)

 もう90歳を過ぎた母はまだまだ元気で、たまに私とウナギを食べに行くことを楽しみとしてくれている。
 いつだったか3.11(2011年)の東日本大震災があった後、その話から阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の話に移った。それは義援金のことである。
 1995年当時は父も元気だった。そんな父を思い起こしながら、、、
母「お父さんがね、阪神・淡路の震災があった時、『おい、被災地にお金を送ってやれ』って言うのよ。だから私は言われたとおりに送ったのに、その後、いくら待ってもお礼のひとつも来なかったわ」
私「フ~ン・・・、でもね、困っている時って、お礼を言いたくとも言えないくらい困っているんだよ。ホントに困っている時って、言いたくても言えなくて、それも困る一つなんだよ」
と言って、そんな自分の体験談をした。それは“心配するといけないので”という理由でそれまでは黙っていた。

 1975年(昭和50年)、大学を卒業して家を出て、自分では独立したつもりで最も生意気だったころかもしれない。障害者にリレーで津軽海峡を泳がせようと、シャカリキになっていた。
 津軽を泳がせるためのお金集めをした。100社回って10社でもいいから話を聞いてもらい、1社でもいいからスポンサーになってもらえればいい。そういう思いで100社以上は回ったと思う。話を聞いてくれたのは10社以上あった。しかし肝心なスポンサーは、商品提供という形ではあったものの、お金に関しては一銭も集まらなかった。
 当時の社会はまだ障害者について理解がなく、公共のプールでも障害者が入ることすらままならなかった時代である。同時に1973年のオイルショックから、時代はバブルが弾けた昨今に似て、景気はとても悪かった。
 それでも会社を回り続けた。そこで聞いたのは、
担当者「お金を提供するには“純然たる寄附”と“コマーシャルとして使う”の2点なんですよ。例えばコマーシャルで、可愛いモデルさんがコーラを飲んで『美味しい!』と言えばコマーシャルにもなりますが、身体の不自由な方が『美味しい!』と言ってもイメージとして良くはならない。したがって純然たる寄附行為しか残っていないんです。でもね、今の時代は何処も厳しい。我社も同じなんですよ」
とのことだった。
 それからは会社回りから財団法人など地方公共団体に移って行った。
 中でも印象に残っているものは、当時の日本船舶振興会の笹川会長にお会いできたことだ。その頃“船の科学館”がまだ建築中で、完成間近な科学館の中で笹川会長は
会長「ああ、これ(船の科学館)は100億だよ」
と上機嫌で話されていた。
 しかし障害者の津軽泳に関してはまったく興味を持ってくれなかった。
 次には国に行くことにした。当時の厚生省である。それは、その前年にNHKで私を紹介してくれて、当時の厚生政務次官につながりが出来たからだ。
政務次官「厚生省としてあなた個人にお金を上げることは出来ないが、あなたを新聞に載せることは出来るから。そうすれば新聞を読んだ人から寄付が集まるよ」
と、新聞に津軽泳と私を載せてくれた。
 確かにそれによって寄付金は少し集まった。しかしショックな出来事もあった。それは子ども新聞にも私の記事が掲載されたのである。小学4年生の男の子から封筒に400円と手紙を入れて送ってくれたのである。
手紙「ボクはプラモデルが大好きな小学校4年生です。子ども新聞を読んで身体に障害を持つ人たちが津軽海峡を泳ごうとしていて困っていることを知りました。プラモデルを買おうと思って貯めた400円ですが、皆さんに使っていただこうと送ります」
 涙が出てきた。笹川会長の100億より、この子の400円の方が価値はあると思った。何故なら私も子どもの頃はプラモデルが大好きで、この子の気持ちが痛いほどわかるし愛おしく思えたからだ。
 それまで私は生活費と津軽を泳ぐための費用は分けていた。しかしそれではいけないと、自分の生活費も津軽の費用に寄付をした。
 実際の津軽泳は当ブログ「海上保安部」をご覧いただきたい。いずれにせよ津軽に行っている最中は良かった。問題は帰ってからである。お米を買うお金すらなくなっていた。
 父とは「オレは独立する!」とケンカ腰で家を飛び出した私だ。こんな形で家の敷居なんてまたげなかった。腹が減ると食事時に親戚の家を訪ね、「そんなつもりでは・・・」と言いながら食べさせてもらった。一件だけでは家にバレるといけないので何件かにまたがって親戚回りをした。
 そんな時、『いつかは自分で遠泳を出来るようにし、尚且つ自分で飯が食えるようになってやる』と思ったものだ。もちろん、400円をくれた子どもにも、その他、寄付をしてくれた皆々様にもお礼は出来なかった。お礼をしたくとも、お礼をするお金がなかったからである。
 その時、『寄付は良くない。泳ぐなら、泳ぐ人が費用は負担すべきだ』と思うようにもなった。

 その津軽泳はNHKテレビで紹介され、母と一緒にその番組を観ていた時、
私「応援する人のメガホンを買うお金がなくて、段ボールを丸めてメガホンを作ったんだ。段ボールのメガホンなんて、、、、カッコ悪いよな」
とぼやいたら、
母「何が“カッコ悪い”ですか!」
と本気で叱られた。

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(20/38)

20.おじん3人組みが!

 アパートは5階建てで我々の部屋は1階。部屋は奥にダブルベッドのある寝室、キッチン、リビング? そこにはベッドになるソファー、そしてゲスト用の折りたたみ式簡易ベッド。で、どうみても3人分しかない。予定では4名泊まれることになっている。あぁ~そうだ、ダブルベッドが2人分だった。おじん2人がダブルベッドで寝る? 考えただけでも気持ち悪~~! キッチンには鍋、やかん、食器類、冷蔵庫、食洗機まで揃っており、自炊は問題なくできそうである。
 荷物を置き、一休みしてから街中を散策。大きな道路に出ると角に協会、その先には大きな公園、公園内を通り抜けて更に広い道路へ出た。食べ物屋、食品店等々色々な店が連なっている。更に足を延ばし、大きなスーパーマーケットも見つけた。ここで明日の朝食食品を購入。
 帰りがけに石井先生の命の水「ビール」を近くの食品店で購入。本当はスーパーの方が安かったのだが、重たいので近場にしたのだ。

P8070108 タクシー代を払うオー先生

 夕食はオー先生の提案で外食をすることにした。アメリカも、イギリス、スペインと同じように日の暮れが遅い。午後8時半ごろにやっと暗くなる。7時半過ぎにアパートを出て、あらかじめ目をつけておいた店を目指す。昼間は殆ど気づかなかったが、そこ以外にも沢山の店が開いていてビックリ。他も見てみようとブラブラ歩きながら店を探し、外にテーブルが並べてあるスペイン料理の店の雰囲気が良いと言うことでそこに決めた。
 チャーミングな若い店員さんが応対してくれて、石井先生、オー先生はすっかりご機嫌!! 料理は本日のお勧め「タコスシーフード」。腹もあまり減っていなかったので2人前を3人で食べたが私には丁度良い量であった。

P8070144 スペイン料理のお店とチャーミングな店員

 食事を終えてアパートに戻り、寝床をどうするか? 今夜は私がダブルベッド、オー先生がソファー、石井先生は簡易ベッド。ローテーションで毎晩変わることにした。と言うのは、ソファー、簡易ベッドがあまりにもお粗末なので、多分、眠れないと思うからだ。
 お二人はお疲れの様子で直ぐ横になってしまった。石井先生は相変わらず物凄いいびき。私は湯船につかり、のんびり、ゆったりとしてたっぷり汗をかき旅の疲れを取った。
 夜中に何度か目が覚めてトイレへ行ったが、石井先生は高いびき、オー先生は眠れないのかゴロゴロしていた。午前3時ごろ目が覚めてトイレへ行ったら、石井先生がパソコンを開いて何やらやっていた。その後又トイレに起きたら今度は風呂から出てきたようだった。多分、時差ボケが抜けていないのだろう。長い、長い、一日だったように思う。

3月11日 忘れてはいけない大震災

 2011年3月11日(金)14時46分18秒、東日本を中心に大震災が発生した。そしてその震災は津波、原発事故を呼び、そのトリプルパンチは日本全体を出口の見えない真っ暗闇へと導いてしまった。プールはしばらく閉鎖となり、子どもの唯一の楽しみである水泳を奪った。プールの使えない水泳教師は丘に上がった河童と同様で何も出来ない。それは水泳教師と子どもばかりではなく、広義で日本国民全員が被災者となった。
 その震災の時の模様はこのブログ「第一部 東日本大震災 1.東日本大震災」に紹介しているし、その年の夏には被災地(石巻)にも行ってきた。(当ブログ「被災地(石巻)に行ってきました。」を参照)
 去年の夏はその後の被災地が気になって、再び東北を訪れている。(当ブログ「8月22日 東北三県(被災地)を巡ってきました。」を参照)

 震災直後、世界中のスイマーたちから私へメールが届いた。初めは安否確認。次はお見舞い。更に日本の復興支援のための協力メール。その量は数えきれないほどで、返事を書くに丸一日を費やした。それは世界中のスイマーたちが私へ気をかけてくれていたことで、正直、嬉しかった。それと同時に返事を書くたいへんさに嬉しい悲鳴を上げていた。
 そんな多くのメールの中で、最も心が奪われたものはアメリカ人のデービッド(David Barra)が送ってくれたメールで、「日本の復興・復旧のために、何かが出来る名誉を私に与えてください」というものだった。
 たまたま障害者を相手に水泳指導の仕事をしている私には、時折『誤ったボランティア精神を持った日本人が少なくない』と思っていたので、デービッドの腰の低い物言いに感動したものだった。
 いずれにせよ震災の復興・復旧のために「何かをしたい」と挙手した相手には、「あなたの国の赤十字を通して日本の赤十字へ寄付してください」とお願いをした。

 それにしても後から知ったことだが、被災地の長水路(50m)プールでは亡くなられたご遺体の安置場所として使われていたと知り、震災前の明るく元気なプールが震災後の暗く涙のプールに変貌したことがショックだった。

 今年の3月11日、“東日本大震災から3年 思いを新たに~被災地・被災者を忘れない~(主催:東京都)”というイベントが東京の秋葉原で行われた。内容は東北の特産品販売、復興写真展、アスリートからのメッセージ展示などある。また同時に“防災展”が行われ、伊豆大島(東京)も出展していた。そうそう、東京の伊豆大島も台風で被災に遭った島なのだ。このイベントに行ってきた。
 防災展では多くの防災グッズが展示・即売会がなされており、そのサンプルを私もたくさんいただいた。
 いちおうキャンプもやる私には、被災に遭ってもおそらく一週間から十日くらいは生活できる飲食物を持っている。昔、赤十字のボランティアもしていた経験があるので、それなりの応用力もあるつもりでいる。
 だがこれらは被災後、“私が生きていたら”の条件付きであって、生き残れることを保障したものではない。いずれにせよそれは統計と確率の問題であって、いつかは必ず訪れるであろう震災に、生き残る統計や確立を高めることは可能だ。
 震災の復旧・復興も重要だが、震災にどう対面するかも重要な課題だ。この震災を生かすか殺すかも私たちに提出された宿題であることを忘れてはいけない。

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(19/38)

19.来たぞぉ~、アメリカ

 入国審査ではズラリと長蛇の列が出来ている。『我々が最後かな』と思ったら未だ後ろに数人が並んだ。私としてはここが一番嫌な場所だった。が、石井先生と一緒に審査されたので難なく通過。でも顔写真、両手の指紋を取られた。『このデータがFBIに残るのだろな』と思った。
 JFK空港はとても広い。ターミナルが「8つある」と聞いた。空港内を「エアーライン」という日本の「ゆりかもめ」みたいな乗り物が走っている。環状線になっていて8つのターミナルを結んでいる。

P8060028 JFK空港内を散策するお二人

 今日から1週間お世話になるアパートは午後3時からでないと入れない。それまでの時間を「どうやって過ごすか?」である。大きなトランクはあるし、オー先生は足が不自由なのでそうそう動き回ることも出来ないし、トランクを一時預かり所に預けて何処かへ行こうと考え、金額を聞くとLサイズトランク1個に付き$28と言われ、それは諦めた。そして時間まで空港内で時間を過ごすことにした。
 どこか食事を摂る所がないか空港内の係りの方に尋ねると、1番ターミナルの出発ロビーへ行けばあるとのこと。我々が現在いるのは8番ターミナルなので、空港内を走るエアーラインに乗り1番ターミナルへ行く。やっとこさっとこ足を伸ばし、休めるところへ来た、時間はまだ午前9時を回ったところである。
 時間はたっぷりある。食事をしたり、話をしたりで時間を潰すがそれでも余る。宿泊先のアパートへはどのように行ったら一番良いのか出発カウンターに「JAL」がありそこで聞いたらタクシーが一番良いし、早いと言われた。地下鉄だと何度か乗り換えが必要で大変だそうである。タクシーは必ず「イエローキャブ」にして下さいと念を押された。白タクだと料金を2~3倍請求されることもあるそうだ。そしてついでにJALの係りの方にお願いしてアパートの管理者に連絡を取ってもらい午後3時を2時に早めてもらうことに成功した。タクシーでも1時間くらいは掛かるとのこと。これでやっと空港から離れることができた。
 このタクシー運転手はロシア人だそうだが、非常に荒っぽい運転。割り込みは当たり前。広い道路に出るとガンガン飛ばす、飛ばす。空港を出てからのしばらくはのどかな郊外の風景と言った感じだったが、遠くに高層ビルが見えだしたと思ったら、あれよ、あれよという間にニューヨークの摩天楼群が迫って来た。地下道路を抜けるといよいよマンハッタン島に入るらしい。

P8070064 この地下道路を抜けるとマンハッタン島だ     

P8070059 車窓から見えてきた摩天楼群の姿

 先ずはアパートの鍵を受け取るために街の中心部へ向かう。何とか事務所を見つけて、石井先生が鍵を受け取るために車を待たせてビルの中へ入った。しかし中々戻らず、運転手がイライラし出して「未だか、未だか」と盛んに文句を言い出した。でも私たちにはどうする事も出来ない。
 20分ほどしてやっと戻ってきた。今度は宿泊先のアパートへ向かってもらうことになっている。タクシーの運転手はかなり遠回りをしているようだ。来るときに走った道路を又走って、やっと目的地の所へ辿り着いた。トータル2時間ほど走っただろうか? 料金は$105を請求された。オー先生がチップを含め$120を渡すとビックリしたような態度で礼を言って走り去って行った。かなり吹っかけられたのだろうが、分からない。

3月9日 あれから1年

 3月4日、東京地方にはおそらく多くの杉花粉が飛散したのではないだろうか。
 「年を取ったら花粉症にはならない」と聞いていたので『私は大丈夫!』と思っていた50歳もとうに過ぎた矢先、ある日、突如として鼻水タラタラ、眼はカユカユ、涙タラタラになった。
 周囲からは「花粉症になった」と言われ、よもや『そうかなぁ~』と半分は思っていた私だが、残り半分は「いや、絶対に違う。オレは花粉症になんかならない!」と周囲の友人たちと自分自身には言いきっていた。しかしそれから数年、毎年、春になると鼻がムズムズ、クシャミが止まらない季節が続いた。
 仕方なく病院へ行ってアレルギーの検査をしてもらうと、「杉花粉症です」とドクターから太鼓判を押されてしまった。他にアレルギーは見つからなかったが、それからどうも“慢性鼻炎”になってしまったようで、一年を通して鼻の通りが悪い。
 一緒に旅行する仲間からは「お前のイビキはスゴイ!」と言われるが、私は聞いたことがないので「オレはイビキをかかない!」と言い切っている。しかし朝になると喉がカラカラに乾いて喉ガレするので、『慢性鼻炎からイビキをするようになった』とも内心、思っている。
 とにかく3月になるとクシャミ、鼻水、鼻づまりがひどくなるし、夜になると就寝中は鼻が詰まって口呼吸になり、クシャミも相まって喉が痛くなるしガラガラ声になるし痰はからむし、よく眠れなくなるので体調はとても悪くなる。
 プールでは花粉は飛んでいないし適度な湿気があるので一時的に調子も良くなるが、ずっとプールにいるわけにもいかず、外に出ると戻ってしまう。また抗ヒスタミン剤を持っているが、副作用として眠くなるので送迎をする私には運転があるので仕事前に飲むわけにはいかない。
 いずれにせよティッシュボックスを持ち歩きたいほどよく鼻をかむ。すると鼻の周囲がヒリヒリしてきて柔らかいティッシュが欲しくなる。

 そう、去年の3月9日、まったく同じ現象で、仕事帰りにスーパーに寄って柔らかいティッシュを買って、その帰り、スーパーから50m走った交差点であの交通事故に遭遇するのである。
 “たられば”は良くないと思うが、『花粉症になっていなければ』とか『柔らかいティッシュを買いに行かなかったら』とよく思う。それほどあの事故には印象が悪い。
 愛車ハイエースは大事に大事に乗っていた。沖縄を除くすべての都道府県は走り回ったし、大事に大事に乗っていたので40万km(地球10周)を越しても大きな故障はなかった。ある意味、それは私の自慢でもあったし『最後に走れなくなるまで走ろう』とも思っていた。
 ところがこの事故で愛車ハイエースは廃車になった。保険会社による事故責任の判定は9対1(相手対私)の過失割合。つまり今回の事故の私の車両に対しては90%を相手が保証し(残り10%は自己責任)、相手車両の10%を私が保証しなければならないということだ。だがたとえ1でも私に過失割合が出るのは不満だった。
 さらに事故処理は事務的で、40万kmを超したハイエースの時価は二束三文、大事に大事に乗っていた“クルマへの思い”は加算されていなかった。クルマに愛情を持たないと40万km以上も走らないのだぞ!! さらにその二束三文の時価に対して修理費は約その10倍。保険会社は修理費とその車両の時価の安い方しか保証しない。結果、二束三文の私の車両(90%)より、相手車両(10%)の方が価格としては高くなるのだ。おかしくないか???
 極力事後解決には積極的に行おうと思っていたし、警察からも「お互いに話し合って円満に解決してください」と言われていたものの、相手方の保険会社は「相手方と会うことも話すことも禁止」などと訳の分からないことを言ってくる。まあ相手方と私の間で下手な約束事でもされたら困るからだろうが、それなりの順序や言い方があるだろうと思う。
 仮に相手方から「今後の事故解決に当たって自分の保険会社に依頼したいが、承諾してもらえるか」との問い合わせがあり、それを私が承諾したなら話は別だ。事故当事者とは全く関係のない保険会社がいきなり出てきて一方的に「○×は禁止」とか「ああしろ」とか「こうしろ」とか、、、何の権限があってそんなことが言えるのか、「私はあなた方保険会社の車両と事故を起こしたわけではない」と、かなり立腹した。
 とにかく相手方保険会社の担当者は、どうやら保険会社に“この程度の事故にはこのような処理”というセオリーがあって、そのセオリーに乗せた事務的な対応でしかなかった。そのくせ、『どのくらいの知識を持っているのかな?』と「あなたの言う“徐行”とは、どのくらいの速度を言いますか?」と聞くと曖昧な答えしか返ってこない素人なのだ。そんな保険会社とのやり取りで、私はとても憤慨していた。

 この事故で私は右手中指を骨折した。この保障に対し、私は憤慨な保険会社とのやり取りを避け、弁護士にすべてを依頼した。自分の精神衛生上に『良くない』と考えたからだ。
 また、この事故の半年後、私の右手中指は“伸びきらない”、“曲がりきらない”状態で「症状固定」として治療は終止符を打った。
 クルマのことといい、ケガのことといい、まったく元に戻ってはいない。それが気に入らず、「後遺障害」として私は申請することにした。
 担当医は「昔なら取れただろうが、最近は厳しくなってきているので難しい」と言っていたが、「完全に治ってはいない」という事実を保険会社に知らせるためにも私は「必要だ」と思っていた。

 2月の下旬から3月の上旬にかけて、東京都障害者総合スポーツセンターでスキーキャンプがあり、それを私も講師として派遣された。この時、医療班として同行した整形外科のドクターに私の指を診てもらった。ドクター曰く「後遺障害は関節の可動域が60%未満じゃないと難しいんだよね。あなたの指は約70%の可動域なので後遺障害は無理だろう」とのこと。
 3月11日、弁護士から「残念ながら後遺障害は認められませんでした」と連絡があった。
 もう事故から1年を過ぎたのにこれから賠償請求(慰謝料)である。まあ今回の事故は相手方に恨みも辛みもないが、クルマにしてもケガにしても“やられ損”はおかしく思う。
 まあそれでもおそらく“やられ損”で終わるのだろうが、『それなりの抵抗はしてやる』と思っている。
 いずれにせよ事故に被害者も加害者も得は無く、すべてが“被害者になる”ということを思い知った。
 おそらく毎年“花粉症”になる度に、私はこのことを思い出すだろう。

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(18/38)

18.機上の人に

 8月6日、何度か目が覚めたり眠ったりを繰り返しているうちに起床予定の午前3時40分になった。素早く着替えて1階のロビーへ向かう。ロビーにはかなりの人が集まっていた。皆さん早朝便でどこへ行くのだろうか? ホテル前からバスに乗り、羽田空港国際線ターミナルへ向かう。何だか空港内をグルグル回っていたようだが、4時20分にターミナルに到着。既にオー先生は待ち合わせの場所に来ていた。オー先生は自宅から車で今朝、直接ここへ来たのだ。
 搭乗手続きの時に携帯電話の充電器は手荷物に中へと指示を受け、トランクを開けてザックに移した。「トランクの鍵は掛けて下さい」とのこと。但し「アメリカを発つ時には鍵は閉めないこと」と、カウンターの方からアドバイスがあった。
 出発ロビーは113番。午前5時前には着いていたが、待っている人はとても少ない。

P8060013 出発ロビーで待機中のオー先生(右)と私(左)

 飛行機の出発予定時間は6時50分だが、15分ほど遅れてようやく機上の人となった。どのような飛行経路なのか興味津々だった。座席のモニターを飛行経路画面にして確認したら、北へ向かって飛んでいる。私のイメージでは太平洋を横断するのかと思ったのだが、羽田からほぼ真っ直ぐ北上、北海道から千島列島沿いに飛行していった。
 今日、機上の人になったが、ここまで来るのに色々な事があり、再びそのことが蘇ってきた。今年の初め、石井先生から「マンハッタン」と題した1通のメール、イーストリバーを遡り、ハドソンリバーを下る。しかもニューヨークの摩天楼群を見ながら泳げる。でも私は当初断った。何故ならば、昨年肺炎を発症し、その原因はどうも海泳ぎらしい。それ以外の原因は見当たらない。海へ流入する川の水をしこたま飲んだからかも知れない?? 等々。
 それからキンちゃんの行く、行かない騒動。これには私も相当頭にきた。そんなこんなを経てやっと今日のフライトへと辿り着いたのである。

P8060014 いよいよ搭乗開始これから13時間のフライトだ

 羽田を飛び立ち2時間経過、飛行機は日本を飛び去り、更に北へと向かって飛び続けて行った。千島列島沿いに飛行。アラスカ、カナダ、ニューヨークの経路。丸い地球を横断するより、縦回り、いわゆる北回りの方がアメリカ行は近いのかなぁ~?
 羽田を飛び立ち約6時間、13時頃トイレに立つ。ついでに外の景色を覗いて見てビックリ!! 何だか良く分からないが、全体が白っぽく見え、その中に点々と黒い場所があり、細く曲がりくねった川の様な景色。シベリアのツンドラ地帯? の景色のようだ。生憎とカメラを持ち合わせていなくとても残念。見渡す限り同じような景色なのである。
 飛行経路ではそろそろシベリアとアラスカを分けているベーリング海峡付近を後1時間ほどで通過かな? の所まで飛んできた。日付変更線が見えたら楽しいなぁ~。時速900km/hの速度で地球を回っていると時間を追い越してしまう。いつも思うのだが、このまま飛び続けて時間がどんどん後戻りしていく。いわゆる「タイムスリップ」が出来たらもっと楽しのになぁ~。

P8060010 私たちが乗ったアメリカンエアー機

 今回のリレーメンバーでアメリカメイン州在住の陽子さんのアドバイスで時差ボケを早く解消する方法の一つとして日本を飛び立って4時間を過ぎ辺りから頑張って眠ると良いそうだ。そのアドバイスに従い食事の後、ひたすら寝る努力をした。座席の前のモニターは飛行状況が分かる画面にしておいた。石井先生は私の右隣、左隣は東南アジア系の小学低学年と思われる女の子。その子は子ども向けのアニメを夢中になって何本も見ていたようだ。
 私はアイマスクをしてスリッパに履き替え、なるべくリラックスして目閉じ、耳栓をしてウトウトしながら時間の過ぎるのを待つ。席を立ったのはトイレに立った6時間経過と着陸前に行った2回だけ。私としては驚異の少なさ。前立腺肥大症でトイレが近いはずだが、機内の空気が乾燥していることと、水分補給が極端に少ないためだ。何とか症候群にならなくて良かったが!! でも、この長時間飛行の苦行を乗り越えなければ楽しむことは出来ない。その楽しみを謳歌するためにただひたすら耐えて、耐えて時間の経過を待つ。時間が解決してくれる。モニターに映し出される飛行経路でニューヨークが段々近づいてくる。日本と13時間の時差。アメリカは夜明けとなるが日本は日没の時間。地球1周4万km。時速900km/hの速度で進むと時間を追い越している。地球1周を24時間で回るとすると、時速1,600km/h以上のスピードが必要。未だスピードが足りない。上空1万m以上の所を飛んで偏西風に乗ると、1,000km/h以上のスピードが表示されるが、900km/hを切る時もある。偏西風が息をしているのだろうか?
 着陸2時間前に朝食が出された。今回も完食。2回目のトイレに立ったが足がパンパンに膨れ上がっていた。いよいよ着陸態勢に入った。高度がズンズンと体に伝わる速度で降下している、小窓から飛行場の景色がチラリと見えた。ズズズ~ンとタイヤが滑走路に着地した。いつもの事だがこの瞬間が一番ホットする。アメリカ時間午前7時15分。飛行時間13時間10分。やれやれ苦行に耐えた空の旅がやっと終わった。
 座席が後方なのでのんびりと最後に席を立った。

P8070041 JFK空港内のJALでアパートの行き方を確認

2006年3月15日 キンちゃん、湘南で海練習

 ガートルード・エーダリ賞をもらったキンちゃんは、家に帰る途中、湘南の海に行って冬でも海の泳ぎを楽しんでいる仲間と泳ぎました。

P3150173_2

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2007年3月13日 キンちゃんの淡島~大瀬崎間 2-way solo swim

 この詳細は当ブログ「キンちゃんが行く」Vol. 1をご覧ください。

  • 淡島(09:38)⇒大瀬崎(12:54)=3時間16分
  • 大瀬崎(12:54)⇒淡島(16:00)=3時間06分
             往復合計記録=6時間22分

<コンディション>
   天候:晴れ
   水温:14~15.8℃
   気温:12~14℃
   波高:0.5~2.0m
   風:Max:12m/sec
   風向:南西

100_0011 今から泳ぎます。

100_0014 キンちゃんの耳栓。材質はシリコン、粘土状で“耳に入れる”ではなく、“耳に蓋をする”というタイプです。挿入タイプの耳栓で耳が痛くなる人にはお勧め!

100_0016 富士山も綺麗です。

100_0017 大好きな船頭さんと

100_0018 「この寒いのに、大丈夫?」と応援するギャラリー

100_0020 淡島のホテル前をスタート

100_0021 スタートしました!

100_0024 富士山をバックに力泳中

100_0051 アップ

100_0056 どアップ

100_0071 どアップ2

100_0077 イェ~イ

100_0082 どっちが綺麗

100_0085 どアップ3

100_0098 イェ~イ2

100_0102 風が強くなってきた

100_0107 負けてたまるか!

100_0118 アップ2

100_0125 大瀬崎の折り返しはダイバーに囲まれて

100_0127 栄養補給

100_0138 ン? 海からダイコンが生えている??

100_0141 風に乗って泳ぐ

100_0155 アップ3

100_0160 富士にも雲が!

100_0167 波も高くなってきました。

100_0171 高い波だけど、波が好き!

100_0185 もう少しだ!

100_0188 淡島到着!

100_0190 船頭さんご夫婦と

100_0195 お世話になった民宿のご主人と

2006年3月13日 キンちゃん、「ガートルード・エーダリ」賞受賞

 「ガートルード・エーダリ賞」とは、ドーバー泳を公認する団体“CS&PF”の、その年のドーバーを泳いだ最も印象的な女性に贈られる賞です。

 ガートルード・エーダリ(Gertrude Ederle: 1906年10月23日~2003年11月30日:アメリカ)は史上初の女性ドーバー海峡横断完泳者(フランス⇒イギリス)です。(1926年8月6日:当時19歳:14時間39分)

"People said women couldn't swim the Channel but I proved they could" ―Ederle

「人々は『女性がドーバー海峡を泳ぐことは出来ない。』と言いましたが、私は自分自身で泳ぎきれることを立証しました。」――エーダリ

 その後も彼女の偉業はスポーツにおける女性の可能性が無限にある証拠として常に役立っているのです。

 2006年3月、CS&PFが毎年ドーバーで行っている表彰式において、2005年の栄えあるガートルード・エーダリ賞をキンちゃんが受賞した。
 もちろん日本にいる私たちはその表彰式に参列できないので、ドーバーにいたオーストラリア在住のリックが帰京の際に成田経由で帰ってくれて、そのクリスタルトロフィーをキンちゃんに届けてくれた。

P3130164 トロフィーを届けてくれたリックとそれを受け取ったキンちゃん(成田空港で)

P3150171 ガートルード・エーダリのクリスタルトロフィー

 ちなみにこのガートルード・エーダリがドーバーを泳いだ翌日に掲載された新聞(本物)を私が持っています。ただ1926年8月7日の新聞なのですでに紙が劣化しており、硬くなってパラパラと新聞紙が欠けてしまいます。どのように保管したら良いやら・・・・・・・。
 詳細は「遅いクリスマスプレゼント」をご覧ください。

PS)
 2005年は私にとっても最も印象的な年だった。2002年に泳ぐドクター“オー”先生を筆頭に、キンちゃん、湘南の主さんらがリレーチームを作ってドーバーを渡った。それから「ソロで、しかも2-wayを泳ぎたい」と言うキンちゃんの希望で2004年に泳いだ。しかし2回泳いで2回とも1-wayですら泳げなかった。
 そして2005年、1回目で初のドーバー1-way solo swimに成功させる。そして2回目に2-way solo swimに挑むが、フランスを折り返した約3時間後にオブザーバーから「危険な泳ぎ(疲労のため)」と判断され、中断させられる。
 まあこの泳ぎが今回の「ガートルード・エーダリ賞受賞」につながるのだが、そうとは知らない私は失敗に終わった2-wayの直後、「折り返したフランスのビーチの砂を取りに行こう」とキンちゃんを誘う。それは甲子園球児が敗退の時に甲子園球場の砂を持って帰る心境と一緒だ。
 そのフランスに向かうフェリーの中で、海を見つめていたキンちゃんがいきなり恥じらいもなく大声で泣いた。それは2-way solo swimに敗退したことを認めた瞬間であり、泳ぐ自信が音を立てて崩れた瞬間だった。
 それと同時に、「必ずキンちゃんを2-way solo swimに成功させよう」と私が心に誓った瞬間でもあった。
 ちなみに、奇しくも2007年の同じ日(3月13日)に、淡島~大瀬崎2-wayをキンちゃんが泳いでいる。この報告は明日の当ブログ、「キンちゃんが行く」Vol. 1で紹介するが、その中の最後、「14.2005年の思い出」に、キンちゃんの気持ちが描かれている。そしてその気持ちが『“ガートルード・エーダリ賞受賞”につながった』と私は強く思っている。
 明日公開するブログで少しフライングだが、ぜひ読んでいただきたく、抜粋して公開することにする。

「キンちゃんが行く」Vol. 1、「14.2005年の思い出」より抜粋
 この年も私はドーバーの2ウェイを目指していた。そんな私に石井コーチは「ホップ、ステップ、ジャンプ」の要領で、「津軽1ウェイ(5月)、ドーバー1ウェイ(7月)、ドーバー2ウェイ(8月)」とプログラムを組んでくれた。ところが5月の津軽は天候が悪く、約1週間の滞在で一度として海に入ることすらなく終わった。津軽の海は私に背を向けたのである。
 続いてドーバーの1ウェイである。これは7月14日に17時間03分で成功させた。これで日本人としては12番目(女性では5番目)のチャネルスイマー(ドーバー海峡完泳者)になったし、この日泳いで成功した全ての泳者の中で私はトップの記録だった。だが私自身が満足できる泳ぎは出来ていなかった。
 続いて8月2日、本命の2ウェイを目指した。今度は13時間41分でフランスを折り返したものの、疲労、寒冷、眠気、持病の大腿部痛のため蛇行泳が始まり、オブザーバーに“危険だ”と判断され、17時間33分で断念した。
 その数日後、「ヴィサン(フランスの私が折り返したビーチ)に砂を取りに行こう。」とコーチに誘われ、ドーバーを渡るフェリーに乗った。そして自分が泳いだ海峡を眺めていた時、知らず知らずに涙が溢れ出し止まらなくなった。この止めど無く溢れる涙は念願だったドーバー2ウェイの失敗に対する自分への悔しさ、悲しさ、未熟さだった。「持病を持つ私の足では二度とドーバーを泳ぐことは出来ないのか!?」、「私は遠泳に向いていないのか!?」など、いろいろなことを考えると自信喪失になり、ただただとても悲しく、ドーバーの波を見ても「また泳ぎたい!」とは思えなかった。敗北した自分しかそこにはいなかったのである。
 顔面から出る水分(涙、鼻水、よだれ)は全てコーチの服で拭いてやった。コーチの服はビチョビチョになった。それでも許してくれるコーチだが、私が泳ぎをやめることは絶対に許してはくれない。その後ドーバーで残った滞在日は、次の津軽のための練習に当てられた。そう、コーチはまるでこうなることがわかっていたように、ドーバーに来る前に5月に出来なかった津軽を8月の末に泳げるよう準備を進めていたのだ。
 それでも津軽は天候が悪かった。北海道には来ないはずの台風がやってきて「嵐を呼ぶ女だ!」とコーチに言われたりした。日程は過ぎ、「5月の二の舞いか?」と思っていた矢先、「天候が好転しそうだ。」と津軽の船頭、安宅さんに言われた。「ヨッシャー!」と荒れた海での練習になった。たった1時間泳いだだけだがこれが私の津軽デビュー泳。
 このときが今回の淡島~大瀬崎の海と似ていたのである。大波に押されて泳ぐとまるでボディサーフィンのようにグングン進む。「こいつは面白い!!」と調子に乗って泳ぐと、安宅さんの船から簡単に50mは離れてしまう。「オーイ、オーイ!」と呼び戻されてまた泳ぐ。
 今度は大波で流木が私の背中に乗っかった。これが泳いでも、泳いでもなかなか離れない。船の上では安宅さんが「二宮金次郎みたいだ!」と大声で笑った。そんなこんなのデビュー泳だが、これを見た安宅さんは私の泳ぎを知って安心したようでもあった。
 そして8月30日、11時間36分で完泳したのだ。この遠泳は面白かった。海を見ながら波を肌で感じ、「来た、来た、来た、来た、これだぁ~!」と息を吸いながら「次はこの波だぁ~!」と楽しんで泳ぐ。「嵐を呼ぶ女(私)」の波はハンパじゃない。途中、「カルマン渦」と呼ばれる速い潮の境で生まれる渦の中も泳いだ。今度の津軽は微笑んでくれたのだ。
 ゴールのときはいつの間にかゴーグル内に入った海水で左眼はほとんど見えず、右眼で誘導してくれた船の岸よりを見ると、岸では20人くらいの人が私を待ってくれている。見える眼からも見えない眼からも自然と涙が溢れた。念願の、念願の津軽海峡を泳いだのだ。「皆さん、夢の津軽、津軽海峡を泳ぐことが出来ました。ありがとう!」と、御礼の挨拶をした。
 知らせを聞いて駆けつけてくれた安宅さんの親戚から花束を受け取る。こんな経験は初めてだ。端っこの方に安宅さんの奥さんも双眼鏡を首から下げて嬉しそうに立っている。縁の下の力持ち、陰の立役者のお母さんと握手をした。
 こんな状況を今回の大瀬崎の折り返しで思い出していた。
 とにかく津軽の海は優しく豪快に私を迎えて入れてくれた。思いきり泳ぎ、思いきり波と戯れ、いろいろな顔を見せくれ、楽しくて、楽しくてもう仕方が無かった。ドーバーでの憂さを津軽で爆発させたのである。もう一度ドーバーで学んだ全てを発揮し、自分を試してみたかった気持ちは、「いろいろな海を泳いで自分を磨きたい。」、「もっともっと泳ぎの教えや海の自然を身につけたい。」と言う前向きな「オーシャンスイマーとしての自信」へと、変化させてくれていったのであった。
 津軽で思いきり泳げたことが、それまでのドーバーの船で流した涙、混沌とした自分の暗い気持ちに句読点が打て、気分が一気に晴らされて新たな自分の発見、新しい自分への移行へとつながって行ったのだ。これほど「津軽に来て良かった!」と思ったことはなかった。
 ドーバーで私は多くのことを学んだ。しかし、それはいとも簡単にドーバーによって切り取られようとしていた。きっと津軽を泳がなければ、ずっとその尾を引いたまま「泳ぎたい!」と思う気持ちの糸が切れていたかもしれない。ドーバーでの苦い経験が時間と共に和らぐ前に、反省出来る点を自分自身の身体に叩き込んでおきたかった。きっと津軽の神様は私が遠泳をやめる決意を許さなかったのだろう。おそらくドーバーの神様と結託をして、再び2ウェイをチャレンジさせるため、こうなる結果を始めから予測して「更に修行を重ねなさい。」と、糸を切らさないために5月の津軽を今回まで順延して下さったのだ。
 この海の神様の見えない演出の糸に、私はマリオネットのように踊らされていたような気がしている。海は何処もいろいろな顔をしている。同じ海でも表情はいろいろ変化する。たまたまドーバーを泳ぎ、たまたま津軽で泳ぎ、たまたま他の海を泳ぐ。何処も「一回泳いだからもう良い!」なんてことはない。海は喜怒哀楽なのか、いつも別な表情を見せてくれる。そう、遠泳は何が起こるかわからない。そんな海の魅力に、私は"とりこ"になっている。
 ドーバーの石とヴィサンの砂を1つの小さな瓶に入れて私の本棚に飾った。この瓶には私の想いが込められている。お金では買えない大事な、大事な瓶になったのだ。
 これで2005年は終わるが、話はまだ終わらない。この首の皮一枚まで“気力”をもぎ取られたドーバーで、今度はドーバー泳を公認する団体から私へ「2005年の女性による水泳で最も価値がある賞」として「ガートルード・エーダリ賞」を受賞した。
 「見ている人はちゃんと見てくれている。」と思うと嬉しくって、嬉しくってたまらなかった。またこの賞のクリスタルトロフィーはドーバーの石とヴィサンの砂が入った小瓶と一緒に飾ってある。失墜のどん底から天まで昇る気持ちまで、このトロフィーと小瓶は私の思いがギューッと詰まっている。
 だから私は泳ぎをやめられない。しかしその背景に皆さんのご協力があることも決して忘れていない。
 周りの皆さんには本当に感謝しています。ありがとうございました。まだまだ私のこと見続けて下さいね。よろしくお願いします。

2008年3月11日 キンちゃんの淡島~大瀬崎 3-way solo swim(約10km×3)

 この詳細は当ブログ「キンちゃんが行く」Vol.16をご覧ください。

  • 1st leg: 06:44 淡島 ⇒ 09:30 大瀬崎 2時間46分
  • 2nd leg: 09:30 大瀬崎 ⇒ 13:27 淡島 3時間57分
  • 3rd leg: 13:27 淡島 ⇒ 14:44 リタイヤ 1時間17分
       記録: 8時間00分 3rd legにてリタイヤ

天候: 曇りのち晴れ
気温: 8.5~18.5℃
水温: 14.0~15.1℃
波高: 0.5~1.5m
風向・風速: 主に北西 0.0~5.6m/sec
流向・流速: 主に西 0.0~0.5ノット
ピッチ: 64~67回/min

P3110002 大好きな船頭さんと

P3110003 淡島をスタート!

P3110004 「台風が接近」のと予報で大型船が避難しに来ました。

P3110006 デカイです。(ここは海が安定しているので非難する大型船が多い)

P3110007 どアップ

P3110008 釣り船の間を泳ぐ

P3110010 大瀬崎の折り返し

P3110011 淡島に向かいます。

P3110014 絶好調!

P3110017 力泳は続く

P3110025 力泳は続いたが、、、、、、

P3110027 淡島を折り返したが、、、、

2006年3月11日 湘南の主の海練習 桐花園プール(室内)

スタート:8:00  ゴール:14:00
遠泳時間:6:00  結果:6時間泳完泳

写真、データは私が参加していないのでありません。ごめんなさい。

2009年3月10日 キンちゃんの初島~網代間(約6km)2-way solo swim

 この詳細は当ブログ「キンちゃんが行く」Vol.24をご覧ください。

  • 1st leg: 初島 08:58 ⇒ 網代 11:55  2時間57分
  • 2nd leg: 網代 11:55 ⇒ 初島 13:55 2時間00分
       合計=4時間57分

概況:天気 曇りのち晴れ
   視界 20海里以上
   風向 南または西
   風速 1.1~5.4m/sec
   気温 12.0~16.2℃
   水温 13.0~14.0℃
   波高 0.5~1.5m
   ピッチ 65~67回/分
   流向 主に東
   流速 0.3~0.5kn

P3100031 お世話になった船頭さんと

P3100032 スタートです!

P3100033 力泳開始

P3100039 力泳は続く

P3100041 灯台の脇が目標です。

P3100042 折り返しました!

P3100044 再び力泳です!

P3100052 アップ

P3100057 到着しました!

P3100058 ありがとうございました!

P3100060 船頭さんのお店で皆さんと!

2010年3月9日 キンちゃんの淡島~大瀬埼間 1-way solo swim

 この詳細は当ブログ「キンちゃんが行く」Vol.32をご覧ください。

  • 1st leg: 淡島 07:19 ⇒ 大瀬崎 10:17  2時間58分
       合計=2時間58分

概況:天気 曇り
   視界 10海里
   風向 主に東
   風速 4.7~9.5m/sec
   気温 2.9~4.5℃
   水温 14.0~14.5℃
   波高 0.5~1.0m
   ピッチ 63~66回/分
   流向 主に西
   流速 0.0~0.3kn

※ 写真右側にある半円形状の影は、カメラ防水カバーの影です。気になされませんように!

P3090003 大好きな船頭さんと

P3090004 行ってきます!

P3090005 淡島のスタートです。ビーチにキンちゃんが居るのですが、わかりますか?

P3090008 力泳開始

寒風の海練習(その1.)

寒風の海練習(その2.)

P3090021 力泳は続いたが、、、、、、、、

P3090023 1-way (1st leg) で終了。。。。。

2005年3月8日 キンちゃんの淡島~大瀬埼間 2-way solo swim

 すいません。古いパソコンにはデータが残っていると思われますが、現在、私自身が古いパソコンを開く勇気がありません。写真のみです。ごめんなさい。

P3080003 今からスタートです。

P3080004 選果場前、1/3通過です。

P3080005 栄養補給

P3080011 A旗が新しい!

P3080012 力泳中

P3080015 目指すは大瀬崎

P3080017 うっすらと富士が、、、

P3080023 アップ(風が吹いてきました)

P3080024 またまた栄養補給

P3080030 大瀬崎を折り返し

P3080040 風がかなり強くなってきました。

P3080045 再度栄養補給

P3080046 強風の中で

P3080053 強風の中で(パート2)

P3080055 強風の中で(パート3)

P3080058 風を使ってうまく飛ぶ鳥

P3080060 船頭さん

P3080061 船頭さんご夫婦と

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(17/38)

17.やっと旅立ちに

 荷造りは出発前の8月3日(土)4日(日)の2日間、一応荷物リスト作りそれに従いトランクに詰め込んで行った。大会でお世話になる人への土産は小さな提灯を5個揃えた。今回の国際便は羽田空港からの出発となるので気分的にはとても楽な感じ。しかし出発時間が6時50分と早いので、空港ターミナルのホテルに前泊となった。

P8050002 やっと旅立ちの時が我が家を後に

 5日の午前中はいつものようにパートの仕事を済ませ、家に戻ってゆっくりと昼食を摂り、シャワーを浴びて夕方、藤沢駅前から羽田空港行きのバスで空港ターミナルへ向かった。
 時間帯が夕方のラッシュアワーにぶつかり、道路が非常に混雑しており、予定だと1時間チョットで羽田へ着くはずだが、大船を抜けて高速道路へ入るまでにかなりの時間を費やしてしまった。高速道路に入ってからは順調で、予定より30分ほどの遅れで羽田第二ターミナルに到着した。石井先生は既にホテルに入っていた、夕食も済ませているので後は寝るだけ。とりとめのない話をしていたが、明日は3時40分起床という事なので、モーニングコールを依頼して早めにベッドへ潜り込む。石井先生のいびきは相変わらず物凄い。そして時々いびきが止まる。いわゆる無呼吸症候群のようだ。

P8050005 ホテルでくつろぐ石井先生・パソコンがお友達?

大雪のレジェンド(その7.終)

 毎年恒例の“大人のスキー教室”である。参加者は段階の世代(60代)を中心に私を含めて6名。場所はいつもの「かたしな高原スキー場」(群馬県)。今年は2月16日から2泊3日のツアー。そう、2月15日から降った大雪で、どんなツアーになりましたやら。。。。。

 今回、このレジェンドスキーツアーの参加者は、このブログにおいて全員を紹介していません。何故ならば私の文章力で多くの登場人物を描くと読まれる皆さんの頭が混乱され、何が何だか分からなくなる可能性がありました。それを避けるために一部の参加者しか登場させなかったのですが、ここにブログに出てこなかった奥床しい方々も紹介しておきます。
 Kさん。団塊の世代になると時間が宇宙的グローバルになり、20年前の出来事を「ついこの間」と表現する私のお姉さん的存在です。笑い方に特徴があり、明るく甲高い声で笑います。お嬢さんが音楽家だから??
 Wさん。今回参加者の最高齢お嬢様。10年くらい前までは10年くらい続けてカナダへスキーに行っていらっしゃって、一シーズンに2~3回程度ではなく、一月に2~3回は今もスキーに通い続けているというスキークリーク。
 Hさん。普段は羊毛を紡いでいろいろなものをお作りになるのがご趣味。趣味が高じてヒツジを飼って、毛刈りまでやっちゃうスーパーお姉様です。ちなみに遠泳とは私たちが使うラノリン(羊毛から抽出される脂:スイマーには擦れ予防に使用)でいろいろ教えをいただいています。
 そんなHさんから先日のレジェンドスキーツアーのお礼メールをいただきました。ご本人、承諾の上で紹介させていただきます。

トラさん

今回もスキー合宿、ありがとうございました。回を重ねると本当にいろいろ『あるな~』、『起こるな~』と思います。

今回の雪と渋滞と闘う26時間は20年後(私は生きていないな!)には、尾ひれが付いてもっともっと楽しい思い出として残るのでしょうね。

今は長時間の運転と、三日間のスキーレッスンの為に貴重な時間を割いて下さったトラ先生へ、何かと気を配ってくれるダイちゃんへ、場の雰囲気を盛り上げてくれたKちゃんへ、本当に本当に感謝です。

これが感謝の気持ちを表すメールなるのかどうかは“???”なのですが、

たった一日の、今年初で最後のレッスンで感じた事を書きたいと思います。

と、書き始めたのですが、、、何から書いたらいいのやら“??”です。

頭の中には、私たちがトラさんからレッスン受ける様になった当初からの事がいろいろと浮かんでくるのですが、、、

グループとしては楽しい思い出がいっぱいです。

私個人としてはスキーを楽しみたい、、だけど一歩を踏み出すのが怖い、、だから、なるべく安全で楽しめるスキーがしたい、、そんな想いがありました。

“怖い”というのは、まだ妹の子どもの事や母の事があったので、スキーだけでなく何につけても『自分が元気で居なくては』と言う気負いがあったのだと思います。

レッツスンも初めのうちは『何が何だかさっぱり分らない、、』でしたが、教えて頂くうちに同じゲレンデの幅を広く感じたり距離を短く感じたりするようになってきました。板の扱い方とか、体重の移動とかが分らなくても何かがちょっぴり身体の中に残って行くようで嬉しかったです。

「違うでしょ!!」、「Hさん!! 違うの!!」が10回の内9回でも、、、『これこれ、、この感覚かな~??』と感じる事ができた時の「そうですよ! いいですね~」の一回がとてもとてもとても嬉しかったです。

一瞬でも谷の方を見る事ができたり、足も身体も自然に谷の方向に向く事があったり、『前の年に習った事を身体が覚えていてくれた!! 嬉しい~~』とKちゃんとニンマリ頷いてみたり、後ろから「ああじゃのこうじゃの」言ってくるAさんに、「うるさぁ~~い、Aちゃんのレッスン受けに来たんじゃないよ~」と心の中で叫ぶ回数が減ってきたり、、、とまだまだいっぱいあるのですが、中略です。

そして今回は、たった一日という事もあり『リセットされたワタシの頭のテッペンから足の先はいったいどのように反応してくれるのかしら??』とちょっと不安だったのですが、全てが“リセット”ではなかったように感じています。終わっても身体はそれほど疲れていないし、『あ~~、もう少し時間があればいいな~』『あと一本、あと二本滑りたいな~』と、少しずつ気持ちの余裕が持てる様になってきました。

床の上で身体を軸に回るのではなく、雪の上で回りたいな!!

あら?? これではちっとも“ありがとうございます”の気持ちを伝える文章になっていませんね。起承転結にもならないですね~~

すいません、長々でまとまりのない作文でした。 H

<おしまい>

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(16/38)

16.ボートに乗れる、乗れない、スイムの順番???

 8月2日、石井先生から次のようなメールが届いた。我々リレーチームのボートが決まったとのこと。ボートキャプテンは「トウマ・ヒロユキ」という日系人だということ。
 これは大会事務局からチームキャプテンにしか送られていなかったようだ。このトウマさんは石井先生と一緒に働いていた塚田さんが、このマンハッタン島1周ソロレースを泳いだ時にサポートしてくれたボートのようで、トウマさんは日本語がしゃべれないそうだ。
 陽子さんに「このボートにチームキャプテンの石井が乗ることは可能かどうか?」トウマさんに英文で確認してほしいとも言っていた。それから我がチームのリレーの順番が変更になったと言うこと。1番目が私、2番目はキンちゃん、3番目がオー先生、ラストが陽子さんなりましたということ。
 まぁ~リレーの順番としてはスイムのスピードの速い順が順当なところだが、キンちゃんも私もさほど変わりは無いようには思うが・・・・

P8101051 我々をサポートしてくれたボート「TAZ」

 そして陽子さんのご協力により、「トウマさんのボートに石井は乗ることが出来ることになった」ともあった。トウマさんは沖縄出身の日系三世だそうで、ニューヨークで生まれ育った方だとも書かれていた。
 しかしこの後、どうしたことか石井先生が我チームボートに乗れなくなってしまったのである。これは一大事、多分、石井先生も長い、長い、オーシャンスイム歴の中で自分が携わっていて、その現場に立ち会えないと言うことは無かったのではないだろうか? いったい何が起きたのか???

 7月26日にキンちゃんから封書が届いた。開けて見ると、マンハッタン島の地図が入っていた。キンちゃんが陽子さんの住んでいるメイン州へ遊びに行った際、「日本の皆さまに渡して下さい」と預かったそうだ。縦長の地図で上手くコピー出来なかったので、取りあえず私の所へ送ったそうである。早速コンビニへ行き、カラーコピーして貼り合わせて石井先生、オー先生に郵送した。この地図はマンハッタン島レースにはもってこいのとても見やすい地図である。

大雪のレジェンド(その6.)

 毎年恒例の“大人のスキー教室”である。参加者は段階の世代(60代)を中心に私を含めて6名。場所はいつもの「かたしな高原スキー場」(群馬県)。今年は2月16日から2泊3日のツアー。そう、2月15日から降った大雪で、どんなツアーになりましたやら。。。。。

 おおっと、前回ではいつの間にやら長くてくだらない私のレッスン話になってしまった。この脱線からレジェンドスキーツアーの話に戻さなければ。。。。。
 取り敢えず全員が一度も止まることなく滑って降りてくる。もちろん失敗(転倒)はせずに何本も何本も滑ることが可能になった。疲れにくい滑りが出来るのは、良い位置に乗って滑ることが出来るようになった証であろう。
 昔はちょっと滑るとコーヒータイム、ちょっと滑るとコーヒータイムと、休むことが多かった。今では昼食以外でレストランを利用することはなくなった。
 そんな楽しかったスキーも延長した午後3時半までのレッスンで終了。これから帰るのだ。
 途中、山の家に寄り更衣をさせていただき、帰路についたのは午後5時近くだっただろうか。帰りは関越(高速道路)も通れるとの情報。ところがところが、、、、、
 あまり太くもない片側一車線の道路の両端に除雪した雪山が路肩に連なるものの、高い雪山の裾野が道路を極端に狭くしている。したがって対面するクルマがお互いにすれ違うのにゆっくりゆっくりと走るのだ。それもまだ小さなクルマ同士ならまだ良いが、大きなトラックが対面するとすれ違いが大変!!!
 おそらく、私の前を走るクルマはさほど大きくもないが『先に突っ込んだ方が勝ち!』と思って運転をしているようで、その前を走るクルマの後ろにピタリとくっついて走る。『対面する大型トラックが見えないのかな?』と思うが、とにかく突っ込んで行ってしまう。
 お互いにすれ違いやすい場所で少し待っていれば、結果的に早く交互に通過できるのに、どうも“待つ”が嫌なようだ。結局、動いていてもお互いにノロノロは歯止めにならない。
 山の家は明るいうちに出たものの、関越の沼田インターに乗れたのはとっくに辺りは暗くなっていた。
 さてさて、「関越は通れる」と聞いて沼田から乗ったのだが、二車線あるうちの路肩側の車線は除雪した雪山が山脈を作っている。したがってセンター寄りの一車線のみの通行だ。
 元々飛ばさない私は愛車ヴォクシーの屋根にキャリアで6本ものスキー板を積んでいる。したがってさらに飛ばさない。するとまあまあ私の後ろに数珠繋ぎの車列が、、、、、、、、、、
 ところどころ二車線になるところで私は左に寄り、後続のクルマを先に行かせる。ところが一車線になると途端に私の後ろには車列が数珠繋ぎになる。『嫌だなぁ~』と思いながらもノンストップで走れるのが嬉しい。
 途中、赤城高原SAで休憩。続いて三芳SAで遅い夕食。まあ遅くとも帰りのクルマの中でお菓子などをムシャムシャ食べるからそれほどお腹は空かないのだ。
 三芳でヴォクシーの燃料は残り1/4になった。まあこのまま乗っていても東京は近いし『何ら問題はないだろう』とも思う。が、私たちのクルマの中以外はいちおう“非常事態”なので何が起こるかわからない。そこで10リットルだけ給油した。満タン給油しないのは高速道路上の燃料代が高いからだ。ちなみに私がいつも給油しているスタンドに比べ、高速のスタンドは1リットル当たり約10円も高い!!
 それでもヴォクシーの燃料残量計は1/3に増えた。山の家を出る頃が1/3だったので、10リットルで約100km走ったことがわかる。三日前の我が家を出る前に満タン給油した我ヴォクシーは、燃料タンクの2/3のガソリンを使ったことになる。“ヴォクシーの燃料計が正しければ”という条件付きでいうと、行きは約150kmを40リットルもの燃料を使ったことになる。燃費は行きに1リットル当たり約4km、帰りは約10km。ウオッ、倍以上違うなぁ~・・・。

 そんなこんなで私たちは東京に帰ってきたのである。スキーはあまり滑らなかったが、ちょっと普通ではない時に出掛けたスキーは“レジェンド”としても後々にも受け継がれていくだろう。

<続く>

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(15/38)

15.諸々な事が迫ってきました

 7月に入り、今回のマンハッタン島1周スイムの事務局「NYC」から色々な資料が直接パソコンに送られてくるようになった。内容を訳すのも面倒だし、送られてきたら陽子さん、石井先生に転送するようにとの指示もあり転送していた。時々中身を訳して見てみるが、結構色々な大会を企画、運営しているようだった。
 出発まで残り1カ月を切ったと言うのに全く何も準備をしていない。何故なのだろうか?
 どうも色々あって気持ちの盛り上がり、テンションが上がっていないことも大きな要因のように思う。それでも必要最小限のやらなければいけないことは進めていた。例えば海外旅行保険への加入。エスタ(ESTA)の申請、今回初めて聞く言葉だった。パソコンを使い、パスポートの番号等を入力して申請した。何故申請が必要なのか?
 エスタとはビザ免除プログラムで米国安全保障省より2009年1月12日から義務化されたそうである。このオンラインシステムはビザ免除プログラムの一部で、米国での短期商用、観光目的(90日以下)の旅行をする全てのVWP(ピザ免除プログラム参加国)渡航者は米国行の航空機や船に搭乗する前にこのオンラインシステムで渡航認証を受けなければならないと定められている。
 それから円を$に交換。円安なので概ね$1=100円換算で計算はし易いのだが・・

P8120008 最初の1週間泊まったアパート

 最終的にどのくらいの$を要したら良いのやら、宿泊費は1泊$100として12泊で$1,200、食事代は1日$50として$600、その他諸々で$500の合計$2,300を考えており、その旨を石井先生に連絡した。
 石井先生からは「忙しくて予算書が中々出来なくてごめんなさい」と返事が来たが、概ね私の考えていた費用で収まりそうだった。前半の宿泊費は1人$622、後半の宿泊費は$460、食費は自炊を考えているので1日$50もあれば十分とのことだった。

  • 前半の宿泊場所:Village Suite E Apartment 315 East 8th Street
  • 後半の宿泊場所:1993 Lexington Avenue Lexington Avenue上の121と122の間

となっているとのこと。ここはハーレム地区のど真ん中という感じの所のようだ。石井先生の案内にも「ハッキリ言って怪しい宿泊施設です。でも楽しくやりましょう」だって!!

大雪のレジェンド(その5.)

 毎年恒例の“大人のスキー教室”である。参加者は段階の世代(60代)を中心に私を含めて6名。場所はいつもの「かたしな高原スキー場」(群馬県)。今年は2月16日から2泊3日のツアー。そう、2月15日から降った大雪で、どんなツアーになりましたやら。。。。。

 2月18日(火)、レジェンドスキーツアー3日目、最終日である。レッスン場として、スキー場を私は「かたしな高原スキー場」を選んだ。ここは“スキーヤー専用のスキー場”で、スノーボードは入ってこられない。
 昨年末(12月30日)に志賀高原でスキー滑走中、スノーボーダーが転倒して私のスキーの上に乗り上げた。結果、ボーダー君の上に私が乗り上げるように転倒し、私は肋骨二本を骨折した。だからというわけでもないのだが、以前から個人的に、ボーダー君があまり好きにはなれない。(反論は受け付けない)
※ この事故の詳細は当ブログ「1月10日 痛み止めの効用」をご覧いただきたい。(ちなみに現在、肋骨骨折は完治している)

 いずれにせよ今日がこのツアー最初で最後のスキーとなる。このツアー以外にスキーをしない人も多いので、充分に内容の濃いレッスンをしなければならない。だが相変わらず私のレッスンは“習うより慣れよ”が主眼になっている。別に手抜きをしているわけでもない。だが“あー”だの“こー”だの喋るより、「滑りましょ♪」と一緒に滑るのが“オレ流”なのだ。
 そういえば水泳など多くのスポーツでもそうなのだが、最近は理論派コーチの多いのが『困ったことだ』私は思っている。“わかる”と“出来る”は違う。知的障害の子どもたちへの水泳教室は『わからなくていい、出来るようになればいい』と思って指導にあたり、実際に泳げるようになる彼らを見ると、それは一般健常者にも応用でき、根本は出来ないから出来るに変身させる基本理念に変わりはないと思うのだ。理屈だけでは泳げるようにも滑れるようにもならない。
 いちおうは「今回のテーマは“良い位置に乗ろう”」と決めた。何故ならばスキーは絶えず斜面やスピードの変化にさらされながら滑るスポーツだ。止まっているときは足の裏全体で身体を支えているが、滑り始めた途端に重心が足の裏全体から離れ、ほとんどの場合に山側後方へ重心を置きたがる傾向がある。
 これは“恐怖感”から出る作用なのだが、ある意味スキーはこの「恐怖感を克服する“克服スポーツ”」と言っても良いだろう。
 いずれにせよ自己診断をしながら滑る。いわゆる“気づき”を重点に置いた内容だ。もちろんスキーの良い位置とは“ニュートラルな位置で滑る”だが、これには長距離滑走が最短で覚えてもらえると私は信じている。
 遠泳でもそうだが長距離は無理な筋肉を使うと途端に疲労する。ある意味、疲労が始まると身体は疲労の少ない姿勢や作業へと変化を始める。つまり効率の良い、無駄な筋力を使わない姿勢や作業へと身体が覚えるのだ。頭ではない。
 スピードや斜面の変化に対する対応は経験を豊富にすること。つまり止まらずに、距離は1km程度の長めリフトの降りた地点から乗る地点まで(滑走距離は滑り方にもよるが2~3kmになる)滑ることだ。
 おかげさまで最近になって失敗(転倒)する生徒は極端に少なくなって、リフト乗車時間約8分のところ、6分くらいで滑り終えてしまう。つまり止まらずにそこそこのスピードで滑り降りることが可能になったということだ。しかも休憩時間もなく続けて何回も繰り返す事が出来る。これはこのツアーが始まった約10年前から比べると雲泥の差があることがわかる。

 そうそう、ここはブログの上でゲレンデではない。ゲレンデではしゃべっている時間がもったいないので滑ることに専念するが、少しはスキーテクニックについても披露しておこう。
 昨今のスキーテクニックは“カービング”が特徴になっている。だがカービングのテクニックはそれほど新しいものではない。かなり昔から競技スキーの中では“初歩的な加速テクニック”として生まれていたものだ。
 ただ極端に違うのは昨今の道具の進歩である。“カービングスキー”と呼んで、そのカービングテクニックを簡単に技術習得できるようにスキーの板が進歩している。まあ自閉症さながらにスキーについては頑固にこだわりのある私も、最近はようやくカービングスキーを履くようになった。いや、スキーショップではカービングスキー以外売っていないので、嫌でもカービングスキーになってしまう。そしてそのカービングスキーを履いたら、嘘のように簡単にカービングが出来てしまう。『なるほどなぁ~・・・』と思ったものだ。
 さて、そのカービングスキーテクニック、簡単に紹介しておこう。
 クルマのワイパーを想像してもらいたい。昔、子どもがワイパーを動かしているクルマを見て、「あっ、クルマがバイバイしているよ」とよく言っていた。その“バイバイ”である。ワイパーは半円形上にワイパーブレードを“バイバイ状態”振ってフロントウィンドウに着いたガラスの水滴を拭いている。つまりワイパーブレードのゴムがガラス面を横にずらせることによって水滴を取っているのだ。この“横にずらす”が過去のスキーの滑り方。
 次に電車がカーブするところを想像していただきたい。前輪が曲がったレールの上を通過し、後輪も同じレールの上を通過するので、電車の車両自体が横にずれることはない。これがカービングだ。
 ターンのシュプール(滑った跡)が、前者の“ワイパー型”だと浅く幅の広いものになっているのに対し、後者の“電車型”は深く幅の狭いシュプールが完成する。結果的にワイパー型は横に雪面抵抗を大きく受けるので減速し、電車型はターンによって加圧された力が雪面に加わるので加速する。
 まあ現実的にはカービングでも少しの横ずれは発生するので“電車がレールの上を通るように”とまではいかないが、カービングスキーの板自身はそのような加速テクニックが簡単に習得できるように工夫されている。
 ウーン、文章で表現するのはなかなか難しいな・・・。
 自転車や自動車はハンドル、つまり舵取り装置は前輪にあって、ハンドルを切るとカーブをするが後輪との内輪差が生ずる。船や飛行機はラダー、つまり方向舵が後ろにあって、舵輪を回すとカーブをするが外輪差(?)ではないが、後部が横にずれる。自転車や自動車、船や飛行機、いずれにせよ舵取り装置は前や後ろにあって、カーブの時は前部と後部にずれが生じて通る位置は異なる。これが過去のスキーと同じ。
 カービングはカーブしたレールの上を通るように滑るので、スキー板の前も後ろも通るところは一緒。つまり横ずれが生じないのだ。
 ウーン・・・、ますます説明が難しくなった。これ以上聴きたい方は私と一緒にスキーに行きましょ♪
 いずれにせよカービングをするには先行動作、つまり電車でいう前輪が先にカーブに入って行く、スキーでいうならトップ(スキー板前部)がターンを先導していかなければならない。それをするにはスキーヤー自身が中心になって、初級・中級スキーヤーが最も恐れる方向、谷側前方に身体を預けていかなければならない。
 まあある意味、このように書くのは簡単だが、滑るとそうもいかないのがスキーの特徴。やはりスキーは“克服スポーツ”なのかもしれない。

<続く>

湘南の主さんの「アメリカ・ニューヨーク、マンハッタン島を泳ぎました。ついでにリバティー島も泳ぎました。」(14/38)

14.何だって??

 6月13日、又、突然キンちゃんからメールが入り「行けることになりました」だって!! 内容は「皆さまにはご迷惑をお掛けしているキンちゃんです。家庭の都合で(マンハッタンには行けなくなりました)と皆さまにお知らせしましたが、条件付きで行けることになりました。条件とは“早く帰る”ということです。ですのでマンハッタンでは陽子さんと同行することにしました。往復の飛行機も別で、宿泊も陽子さんと一緒です。そして12日に帰ります。マンハッタンリレーだけでリバティー島スイムは参加出来ません。これが私の“精一杯”です。皆さまにご理解いただければ幸いです。本番ではご迷惑にならぬよう、一生懸命泳ぎます。テレビでは(今でしょ!)というキーワードが評判のようですが、今から更にしっかりと練習に励みます。宜しくお願いします。」

Img_2506 マンハッタンをバックにキンちゃんと

 今更何だ!! 散々仲間に迷惑を掛けておきながら、不参加の説明もなく、又、ノコノコと今頃になって、条件付きで参加します。宜しくお願いしますだと、「ふざけんな~~!!!!!」と私は言いたい!!!!!
 しかもまたまたメール1本だけである。まぁ~、私の中では既に過去の人となってしまったので『どうでもいいやぁ~』という気持ちがい大きい。しかしオー先生からは「先ずは、めでたし。めでたし」と簡単な歓迎メールが寄せられていた。
 キンちゃんもこのような事が世の中で通用すると思っているのだろうか? そうだとしたら本当に世間知らず、水泳という小さな世界でしか通用しないことだと言うことを理解するべし。
 石井先生も一生懸命練習されていたのに、まぁ~、リバティー島スイムがあるから良いようなものだけれど・・・・・
 今、考えると私としてはこの時点でハッキリと拒否するべきだったのではないかな・・・。そうすれば今回のマンハッタン島1周レースで最大の汚点を残した、石井先生の「ボートに乗れなかった事件」は起きなかったのかのではないかと思った。

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