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わくわく、どきどき、台風の目。

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2013年8月の記事

2006年 キンちゃんの津軽海峡 3-way solo swim(ウンの付き)1st leg

2006_2
2006 3-way津軽航跡図

 津軽海峡を泳ぐための伴走船は、やはり地域の海域に詳しい地元の漁師さんに依頼するのが良いだろうと、1-way区間、2-way区間、3-way区間、別々の地元漁師さんに頼みました。つまり一区間ごと伴走船をリレーする形です。泳ぐ日程は石井コーチの海象分析で9月1日、2日、3日となりました。さらに日程に余裕を持って、8月29日に岡崎を出発。帰りは9月7日、岡崎に到着としました。これからはちょっと日記風に書き込んでみます。

 8月29日、新幹線で東京へ。東京で石井コーチと待ち合わせて羽田から飛行機で函館へ。函館からはバスで遠泳到着予定地である浜町へ。浜町では到着した際の受け入れ態勢を準備。浜町のバス停から3-way区間の漁師、安宅さんのご自宅に向かう。途中、晴れているのに空から頭に何かがポツリと落ちた。「ん? 雨?」と思って空を見上げると青空の中を気持ち良さそうに飛んで行くカモメの姿が・・・。何かが落ちた頭に手をやりその手を目の前で見ると、それはカモメの糞であった。「アハハ・・・、これでウンが付いた。もう大丈夫だ!」と笑って石井コーチが言うので、頭にきた私はその手を石井コーチの服で拭いてやった。しかしドーバーでもそうだった。町を歩いているときカモメの糞が頭に落ちてきた。ホントに今年は「ウン」が付いている。

 8月30日、北海道の浜町から青森の出発地、小泊への移動。函館から船で青森へ。青森から電車で五所川原へ。五所川原からバスで小泊へ。津軽海峡は泳いでも10時間程度で渡れるのに、この移動は1日がかりだった。夜に1-way区間の船頭さん、藤田さん、久保田さんに会いに行く。すると「明日泳ぐ。」と言う。着いたばかりの私は「えぇー、明日ー・・・。」と思うが出発の決定権は船頭さんにある。私は指示に従って急遽、石井コーチと翌日の遠泳準備に入る。

日付:2006年8月31日
場所・方法:津軽西口・3-way(1st leg) ソロ(青⇒北)
出発時間・場所:04:46・津軽半島小泊岬権現崎
到着時間・場所:16:29・松前半島福島町浦和
記録:11時間43分
公認:海峡横断泳実行委員会
船名:昭 勢 丸
パイロット:藤田  久義
コメント:日本の海峡は、夜間泳が困難。
 当初、3-wayは一気に泳ぐ予定だったが、夜間泳が「危険」と判断されているため、昼間に3回に分けて行うことになった。

 8月31日、青森⇒北海道1-way目。青森県北津軽郡小泊から北海道松前郡福島に向かう。ドーバーで20℃以下の水温で練習した私の身体は、青森の23℃という水温が高すぎて、ダラダラとしてのぼせてしまいそうだった。が、そんな中を細長く透明でオレンジ色のイクラみたいな丸いブツブツがついているクラゲに刺され、私の目を覚ましてくれた。まるで津軽海峡の神様がクラゲに成り代わり、「もっとしっかり泳げ!」と叱咤激励されているようだった。それからもクラゲの大群だらけで刺されっぱなし、すごく痛かった。あまりにも刺され過ぎて怒りながら泳いでいた私の口なんて、フグみたいに膨らんでいたと思う。とにかく「20時間でも30時間でも泳ぐから、クラゲさん私を刺さないで!」とクラゲの神様にお願いした。しかしその願いは聞き届けられること無く、私はず~っと刺されっぱなしだった。それに船頭さんは北海道が目の前に見えているのに「港」にこだわったのか、コースが大きくそれているのがわかる。それでさらにフグになっていたと思う。それでも天候は石井コーチの予想に反してすこぶる良し。ただし、やはり津軽の潮も予想に反して速かった。16:29福島着。記録は11時間43分。

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船頭の藤田さんと

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朝日を浴びながら泳ぐ

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力泳

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絶好調!

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北海道を目指して

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アップ

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もうすぐ到着

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泳いだよ

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お世話になった藤田さん親子

 9月1日、2-way目の船頭、福地さんが9月2日の予定で組んでいたため、この日はOffになった。ま、急ぐ旅ではなし。出発は気ままにお天気と体調と船頭さんと相談して決めるのだ。ところで今年の津軽は22~25℃と異常に暖かい。活きたイカをそのまま運ぶ漁とか、活きたイカを餌にする漁は、イカをなかなか活かしておくことができず大変だとか・・・。またサメも多く現れているそうで、青森の小さな漁船は捕ったマグロを船に乗せることができない。そこでマグロは船で引っ張って港に帰るのだそうだが、船に引っ張られたマグロの血の匂いか、頭と骨を残して身はサメが喰ってしまいそのマグロは売り物にならなかったと言う。しかし良く知る漁師の話では、サメがかじったマグロは血抜きが終わって味は良いんだそうな・・・。商品価値は下がるが切り身にしてしまえばわからないとか・・・。津軽を泳ぐ人がいる前で聞いたうれしい話だった。でもこれはよくある話だとか・・・。

8月18日 エーダリスイム ロックフェラー(トップ オブ ザ ロック)

 今日は“エーダリスイム”の開催日だ。これにロジャーが参加する。もちろんロジャーにとって、“リバティスイム”は遊びでこちらが本命。
 レースの概要はマンハッタンのバッテリーパークをスタートし、ひたすら南下してニュージャージーのサンディフックまで泳ぐ。距離は17.5マイル(28.16km)だ。(コース
 スイマーたちは朝の5時にバッテリーパークに近いノースコーベに集合。そこでロジャーにエールを送るため、私たち“おじさんs”は朝4時起きでアパートを出る。外はまだ暗い。もちろんハーレムの早朝はまだおかしな黒人たちが居るのだが、おかしな日本人たちが居てもおかしくはないだろう。
 リバティスイムの時、ロジャーは私に南アフリカのスイミングキャップをプレゼントしてくれた。ところが私は“土産”というのがとても苦手で何も持って来ていない。マンハッタンリレーの時、私の知らないところでキンちゃんは“土産”のことで私以外のメンバーと何かをやったらしい。土産が苦手の私を知っていたからか??
 ロジャーは「キンちゃんからもらった」という速乾性のタオルを大事そうに持っており、2011年の私たちが映っているビデオをiPadで私に見せながら、その時の思い出話に花が咲いた。
 いずれにせよマンハッタンで私がロジャーに会うことをキンちゃんは知っており、何だかを「渡す」と言っていたのだがお忘れになったようだ。何せ、P2P(Peaks to Portland:今年7月13日に行われたメイン州のOWS大会)に参加して、「どうだった?」と聞けば「忘れた」とのせつないお返事。超、ウルトラ、スーパー、ミラクルお忙氏の彩あるお姉さまは、ご本人の言う「思い出作り」とは言えないほど超ご多忙のようだから仕方がない。
 いくら文句を言ってもない物はない。スーツケースをひっくり返してみると、P2Pと同じ日に行われた葉山の大会のTシャツ出てきた。それは日本語もあるし日の丸も付いている。1~2回ほど着古しているが、ちゃんと洗濯もしてある。サイズはロジャーにはちょっと小さいかもしれないが、私の宝物であることは間違いない。それを使うか・・・・・・・。
 ロジャー、ごめんな・・・・・。津軽では一生懸命やるから!!!!

 まだ暗い朝の5時。おじさんsはノースコーベでロジャーと会う。葉山のTシャツをロジャーに渡すと、彼は喜んで「Hayama」と読み、大事そうに折りたたみ、大事そうにバッグにしまってくれた。
 人を頼ったのがいけなかった。今後は土産も他力本願にしないで、『何か一つくらい持って来ないといけないな』、と充分に反省をした。
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申し訳ない顔をした私とロジャー

 いったんアパートに戻り、朝食をとる。これで冷蔵庫に私たちの食材は綺麗さっぱり残ってない。パッキングした荷物は昼過ぎまでこのキッチンで預かってくれる(10ドル)。最後の観光だ。
 たまたま私の持っている“シティパス”に「トップ・オブ・ザ・ロック」というのがある。これは“ロックフェラー”のビルの屋上に上がれる入場券である。「何とかと煙は高いところに登りたがる」。高いところはちょっと苦手な私だが、『そろそろ何かを振り切って、新しい自分の何かにならないといけないな』と、あえて高いところに登った。

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ロックフェラーのビル

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ビルの入り口にあるモニュメント

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ビルの屋上から見た北側(中央の緑はセントラル・パーク、左に見える川はハドソンリバー、右の端っこに見えるのはイーストリバーのミル・ロック?)

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ビルの屋上から見た南側(正面のビルはエンパイヤ・ステート・ビル、右に見えるはハドソンリバー、ポンポンポンと島みたいのが見えるが、最も奥がリバティアイランド(拡大してみると自由の女神像が・・・)、左にはイーストリバーと国連ビルが見える)

 

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ロックフェラービル屋上から見るリバティアイランドの拡大画像

 しかし、写真を見て「何が何だ」と説明が出来るくらいマンハッタンには詳しくなった。
 こうして私たちのマンハッタン滞在は終わった。JFK空港には電車で行く。

PS)エーダリスイムのリザルト

  • 1位  18歳 アメリカ人女性         4時間40分01秒
  • 7位  56歳 ロジャー・フィンチ 南アフリカ 5時間11分32秒
  • 15位  56歳 メキシコ人男性         6時間45分10秒(最下位)

 ロジャー、Well done!! 完泳おめでとう!!!

8月17日 ニューヨーク公共図書館 メトロポリタン美術館

 昨日のリバティ島一周スイムのリザルトが発表されたので先に紹介しておこう。

    <距離> 1,200m

  •  1位 19歳 アメリカ人男性    18分01秒
  • 38位 56歳 ロジャー・フィンチ  24分56秒
  • 109位 69歳 湘南の主       30分52秒
  • 201位 60歳 私          37分15秒
  • 288位 32歳 アメリカ人女性 1時間00分22秒(最下位)

 やはり「リバティの首飾りスイム」と名付けて夜に、ケミカルライトを着装して泳がせればきれいだと思う。トップと最下位の記録を見ても、おそらく瞬間的には首飾りが完成すると思うし、出来上がれば綺麗だろうな・・・・・・・・。

 私たちは明日に帰る。そろそろ観光も仕上げとなり、お土産を買う頃となった。同時に湘南の主さんがカメラのバッテリーを欲しがっていて、カメラ屋さん探しを徹底的にやらなければならない。パソコンの地図(グーグル)で“マンハッタン”、“カメラ店”で検索するとズラリと出るのに、行くとカメラ店が見つからないからだ。繁華街に行って探す方が、おそらく早い。
 そこで今日は朝に洗濯に行って、私が欲しがっている錠前をプールへ買いに行った。ところがプールでは「雑貨屋に売っている」と断られ、雑貨店に行くがなかなか見つからない。
 取り敢えずアパートに近い部分はその辺にして、南からチャイナタウンに行ってお土産を購入。ブロードウェイを北に向かってカメラ店を捜す。あった。湘南の主さんお目当てのバッテリーもある。しかしその価格70ドル。メッチャ高い!! 日本では700円くらいだそうで、「それでも“高い!”と思うのに、ニューヨークではその10倍だ!!」と湘南の主さんがぼやく。
 カメラ屋さんの店員も「こっちのカメラに変えなさい!」と、日本製のカメラを薦めていたのには笑えた。
 今度は錠前探しで5th Av(五番街)に出て歩くと立派な建物が、、、、、。「きっとこれは有名な建物だよ」と中に入る。そこはニューヨーク公共図書館だった。
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立派なニューヨーク公共図書館

 湘南の主さんは私が“シティパス”を持っていることを知っていて、「そのパスで入れるところに行こう」と言ってくれた。そこで行ったのが“メトロポリタン美術館”。広過ぎて一日では回れないなぁ~。ロンドンの大英博物館にも行ったが、やはり日本は“東の端っこにある島国の文化”という感じ。美術でも写楽や葛飾北斎が有名だが、何だか“幼い”という感じ。
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メトロポリタン美術館の入り口

 125th Stに戻ると駅に近い雑貨屋に入ってみる。売っていた。錠前が! すると湘南の主さんも買い、帰りにスーパーで「もう一度ビフテキが食べたいね」と言い、最後の晩餐として大きな肉を二枚買った。
 アパートに戻ると湘南の主さんは洗濯物を取りに行きながら、スーパーへ買い物に行った。もちろん食糧庁長官の私はキッチンでビフテキ作り。残った食材もうまく使って残ったのは塩とコショウと醤油かな。調味料の残りは明日の朝食を作った後、大家さんに差し上げて帰ろう。
 それにしてもビフテキは美味い! と自画自賛!!

8月16日 しつこく国連へ リバティ島一周スイム

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リバティ(自由の女神)

 今日は「リバティ島一周スイム」の当日である。レースのスタートは何と午後6時以降だから驚く。理由は島を行き来するフェリーの運航が終了してからのレースになるからだが、まあ日本ではあまり考えられない。これは大会運営の安全を図るためであり、フェリーの最終便が運行された後にリバティ島に残るのは大会関係者とスイマーのみになるのだ。何だか「世界の観光名所“リバティ島”を貸し切り状態にする」というのが嬉しい。もちろん残されたスイマー、ビジター、関係者は大会終了後のチャーター・フェリーで帰ることになる。
 ここでスケジュールを紹介しておこう。

  • 午後5:45:受付終了(リバティ島)
  • 午後6:15:スタート地点に整列
  • 午後6:20:スタート開始
  • 午後6:30:スタート完了
  • 午後6:45:バーベキュー開始
  • 午後7:00:ゴール完了
  • 午後7:10:バーベキューで授賞式
  • 午後8:15:バーベキュー終了
  • 午後9:00:チャーター・フェリー出発

 ちなみに大会前日に送られてきた最後のメールでは「最初のチャーター・フェリーが19:15に出発します。このフェリーに乗る人は授賞式とバーベキューを欠場することになります。云々」。このメールが届く前に私たちは“バーベキュー参加”の意思を大会主催者に伝えているが、早く帰れるフェリーがあるなら私たちはそれに乗りたい。何故ならば私たちのアパートはマンハッタンでも北の方にある“ハーレム”だからだ。いくら「おじさんs」とは言えど、マンハッタンで“犯罪率ナンバー1”の地域を夜中に歩きたくはない。
 すでにバーベキュー料金の一名に付き2ドルを支払い済みであるが、2ドルくらいならまあいっか!

 さらにその前のメールでは「リバティ島に上陸できる人数は“500名まで”と決められており、バッテリーパークから出るフェリーに乗れない場合は泳ぐことが出来ない。云々」のメールもいただいている。つまり“早めに来なさいよ”という意味であろう。
 そうせかされると落ち着いていられない我らがおじさんs。お昼過ぎにはフェリー乗り場へ行こうと決めた。

 だが午前中に時間が出来た私は、どうしても湘南の主さんを国連に連れて行きたかった。土日(明日、明後日)はガイドツアーが休みだし、日曜日には帰国する。チャンスはどうしても今日しかないのだ。パソコンで何とか午前11時からの日本語ガイドツアーの予約をゲット。ところがこの時点で午前10時過ぎ。慌てて国連へ行くが受付で「遅過ぎ!」と一括!
 それでも“遅刻者用”の短いツアー(英語)に参加することが出来た。まあ湘南の主さんに対しては満足できなかったであろうし、焦らせて申し訳ないことをしたと反省している。
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国連にて(世界中の武器が楽器になったら良いのに・・・)

 国連を出てフェリー乗り場へ向かうが、相変わらず地下鉄で迷う。要は降りる目的の駅に快速が止まるとか、止まらないとか・・・。降りるはずの駅を通り越したり戻ったり・・・。はぁ~、まだまだダメだな・・・。
 それでも何とかフェリー乗り場へ。すると長蛇の列。『この人たちがみんなリバティ島へ行くのか!?』と驚く。だが考えてみればアメリカ人のおのぼりさんもいるわけで、その人たちが並んでいるのだ。
 しかし何処かに大会受付があるはず。そこで私たちはフェリー切符をもらわなければならない。
 あった。大会のテントが立っていて、マンハッタンリレーの時のスタッフがそこにいた。たまたまマンハッタンの大会で事務局の連中よりも早くおじさんsは集合場所にいたので、スタッフの方々は私たちの顔を覚えていてくれた。
 柵をちょっと開けて中に入れてくれ、フェリー切符をもらった。そしてそのまま長蛇の列の割り込みをさせてくれる。何だか後ろに並ぶ人たちに申し訳ないし、私たちはお昼がまだだったので列から外れ、近くの屋台で売っていたホットドッグをパクつく。あまり美味くなかったな・・・。

 日本を走行するトラックで荷台のところにジョークで“最大積載量:積めるだけ”というのがある。マンハッタンからリバティ島に向かうフェリーもまさに“乗船定員:乗れるだけ”という感じで、人数を数えている気配は何処にもない。係員が「このくらい(おそらく500名:乗船定員?)かなぁ~」という“丼勘定”のところで閉められ、残った人は次のフェリーへとなる。いずれにせよ“ピストン輸送”をしているのですぐに次のフェリーが来る。『でもたしか、、、リバティ島に上陸できる最大人数は“500名”じゃなかったっけなぁ~???????』

 リバティ島に上陸。私たちおじさんsは左回り(時計回り)で島を一周することにした。自由の女神像と海上の様子を見たかったからだ。
 島は風がけっこう強く、体感風速計では7m/secくらいか? 島の風下は島で波が消されているが、風上は風による波と、その波が島に当たった返し波とが重なって、波高は1mくらいだが細かな波で泳ぎ辛そう!

 ほぼ島を一周したところに大会事務局のテントがあり、私たちはそこで受付を済ませ、受付に近い木陰で休む。
 だがどう見ても焦って来るようなところではない。島にはどう見ても500名以上の人がいるし、6時以降に始まるレースで2時には会場にいるのだ。こんなことなら国連の日本語ガイドツアーで午後の部に間に合ったのに・・・。
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大会事務局のテント

 受付に行って、私はロジャー・フィンチが受付を完了したかどうか確認した。来ている。この島の何処かにロジャーは来ているのだ。ロジャーは南アフリカのオーシャンスイマー、2010年、2011年とドーバーで会っている。二年ぶりの再会になるし、ロジャーは津軽を泳ぎたがっている。

 自由の女神像の裏に公園のような木々が立っているところがある。そこをうろつくといた。ロジャーがいたのだ。彼はニュージャージーに住んでいるタイの女の子と一緒に来ていた。その女の子は30歳くらいか? じゅんこさんより華奢で、でも明るく笑顔の可愛い女の子だった。ロジャー好みかな?
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自由の女神像の裏で

 久しぶりの再会を私たちは抱き合って喜んだ。
 ロジャーに湘南の主さんを「日本人最高齢チャネルスイマー(ドーバー海峡完泳者)だ」と紹介した。するとロジャーは、「今、南アフリカの74歳になるスイマーがドーバーを泳ごうとドーバーに滞在している」と教えてくれた。もしこれが成功したら“世界最高齢”になる。
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南アフリカと日本のチャネルスイマー

 成功すればその朗報は私にも届くであろうし、届けばこのブログにも紹介しよう。

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2011年9月 左:ロジャー・オルソップ(イギリス:世界最高齢チャネルスイマー:70歳4ヶ月)
上からロジャー・フィンチ(南アフリカ)、私、キンちゃん(ドーバーにて)

 ロジャーと津軽の話をしている時に集合が掛かった。受付前にある国旗掲揚ポールの前に集まり、大会の注意事項などがスタッフにより話された。ただ英語なので内容はよくわからないが、パソコンによる“前日会議”より効果的だと思うのだが、どんなものだろう???
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国旗掲揚ポールの前で行われた大会説明会(これで充分?)

 さていよいよレースだ。“105”は私のナンバー。ロジャーも湘南の主さんも“300番代”。おそらく遅い順に並べているのだろう。ところが、、、(後述)。
 水着になった選手たちは“101”からズラ~~~~~~~~~~~~~~っと一列に並ばされる。申込人数333名。その内の一割が休んだとしても300名のスイマーが一列に並ぶとかなりの長蛇になるし圧巻だ。その行列がスタート台に向かって行進する。列の周囲では拍手やカメラのシャッター音が・・・。
 ちなみに101はアメリカ人女性、102は欠場、103は日本人男性(トライアスリート)、104はアメリカ人男性(トライアスリート)、105私、106はアメリカ人男性、107はアメリカ人女性、108もアメリカ人女性・・・と並ぶ。
 そう、私の一人開かせて前に日本人男性がいたのだ。その男性と話した。
男「どうして私はこんな前なのでしょうねぇ?」
私「遅い順じゃないの?? 1500mをどのくらいで申告したの?」(事前に大会事務局に申告することになっている)
男「29分です」
私「えっ、そんなに遅くないじゃん! 他に何か大会に出ている?」
男「去年の湘南OWS10kmを3時間30分で完泳しました」
(決して速くはないが、遅くもない)
私「そうなんだ・・・。じゃあ“遅い順”じゃないかもね・・・」

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コースは反時計回り

 101からフェリーの桟橋先端近くまで行く。先端ではクレーン船が来てスタート台を設置している。この作業に時間が掛かった。とにかく波がバシャバシャあるのでうまく固定が出来ない。スタート台が低い浮桟橋だからだ。
 行列の先頭の方、つまり私たちはその作業を目の前で見ているからスタートできない理由はわかるが、ロジャーや湘南の主さんの並んでいる300番代後方は「何をやっているのか」とイライラしたであろう。
 スタートできない説明でスタッフが行列の後方まで走る。とにかくこの“スタート台設置作業”でスタートが小一時間遅れた。
 この時、説明に歩いたスタッフが104の前でピタリと止まった。104はトライアスリートで、着ている水着の生地がウェットスーツの生地だからだ。まあ普通にある膝上までの海水パンツだが、生地は明らかにウェットスーツ。
 スタッフは盛んに私の水着に指を指し、「こういう水着じゃなきゃダメだ!」と言っているようだ。ちなみに私の水着は昔ながらの競泳用ビキニパンツ(ブーメランパンツ)。オリンピックにだって問題なく参加できる水着だ。ところがスタッフと104の会話が速過ぎてよくわからなかったが、結局は104に押し切られた形になった。だが今後も“水着問題”は生まれるのだろうな。いずれにせよ「白黒ハッキリしないグレーな水着は着ない」が良いだろう。。。。。。。。。

 午後7時過ぎ、ようやくスタートが始まった。スイマーの足には記録を計測するチップが着いている。計測用アンテナの前を通過するとストップウォッチのスタートが入り、再びアンテナの前を通過するとストップウォッチが切れる仕組みだ。それらはすべてパソコンに記録される。
 通過の時にいちいち“ピー”、“ピー”とピー音がする。スタッフはそのピー音を聞いて確認をしている。
 だいたい1分に10名くらいのスイマーが5~6秒間隔で海に飛び込み泳ぎ出す。その中に私の姿がある。しかも先頭近くでスタートしたため、葉山の大会のように前を泳ぐスイマーが居ないので嬉しい。
 例によって“他力本願寺ご本尊”の私はヘッドアップするスイマーにくっついて泳ごうと思ったが、すぐに『リバティ島に並行して泳げばよい』と気付き、マンハッタンの摩天楼と自由の女神像を眺めながら泳いだ。
 水は“葉山の大会”同様に汚いが、ニューヨークの摩天楼とリバティを眺めながらのスイムはなかなか出来ない。しかもスタートが遅れたせいもあるのだが、日差しがほぼ真横から照らすので、自由の女神像の光と影がハッキリしている。それを眺めながらのスイム。何とも贅沢な時間だ。

 1974年6月、ジブラルタル海峡を泳いで横断するために私はスペインのマラガに滞在していた。(ゲッ、もう40年近くも前の話だ!)
 マラガでは闘牛があってそれを観に行くことにした。闘牛場はそれこそ夕方、日差しが闘牛場を光(ソル)と影(ソンブレ)と半々に分かれたときに闘牛が始まる。闘牛士(マタドール)はその光と影の間で牛と戦うのが“美”とされているのだ。
 その時も日差しが強かった。強い日差しの中で六頭の牛が殺された。その時の日差しと自由の女神を照らす日差しが似ている。。。。。。。。。
 『それにしても、どうして40年程も前の記憶が昨日のことのように覚えていて、昨日のことは簡単に忘れてしまうのだろう』と思いながら泳いでいると、いきなり「痛ぇ!」と私に何かが当たった。
 スイマーを監視しているボートだ。何回も注意したらしいのだが、私が気付かずに真っ直ぐ泳いで行ってしまう(島に沿って曲がらなければいけないところ)からボートの船体で私の行く手を阻んだようだ。
 左直角に曲がって島に向かってしばらく泳ぐ。すると今度はカヤッカーから「島に近づき過ぎ!」と注意された。相変わらずジグザグ蛇行する癖は治っていないようだ。
 島から見て風上の、ちょうどチャッピーな波の泳ぎ難い箇所は私が“闘牛の妄想”にかられていたのできつくはなかったが、ゴール地点に向かってはあちらこちらからスイマーが集まって来るので集団になり、その中は例によって蹴られたり蹴ったり、、、それが一番辛かった。。。。。。。。。。。。
 でも偶然にもゴールはロジャーと一緒だった。300番代のロジャーはいったい何人のスイマーを抜かしてきたのだろう。いやいやノロい私がいったい何人のスイマーに抜かされたのだろう。きっとそれは両方だろう。
 ゴールの桟橋から大会事務局のテントに向かってロジャーと歩く。
私「ロジャー、シャワー浴びたくない?」
ロジャー「ああ、浴びるさ!」
私「何処で?」
ロジャー「こっちだよ」
 事務局のテントには飲料用のペットボトルに入った水が山積みされている。それをお互いに持って蓋を開け、お互いの頭の上からジャバジャバジャバ。。。
 アッハッハ、、、ロジャーらしいシャワーだ。

 ちゃっと着替えて湘南の主さんのお迎えに行こうと思ったのだが、湘南の主さんが泳ぎ終わられて事務局テントにやって来た。湘南の主さんも速かったのだ!

 この時すでに午後8時近く。ニューヨークの日没はこの日、午後7時40分頃。着替え終わったころの空は明るさよりも暗さの方が増していった。早く帰る予定の私たちはフェリーの桟橋に行くが、桟橋では8時を過ぎた暗い中でも“ピー”、“ピー”とチップがアンテナの前を通ると鳴るピー音が鳴り響いていた。そして、私たちと反対方向、つまり事務局テントに向かって歩く水着姿のスイマーがいた。暗くなってもまだ泳がせているのだ。これは信じられない。

 当然、19:15のフェリーなど運行するわけない。フェリーが動かないならバーベキューが食べたい。料金は支払ってあるのでバーベキュー会場へ行くが、大会受付でバーベキューはキャンセルしていたので食べさせてくれなかった。
 何と言うか、スタートの遅れもスイマーたちは吹き曝しの路上で水着一枚、寒い中を1時間も我慢していた。アメリカ人がよく文句を言わなかったと思う。それに引き替え融通性のないスタッフたち。もちろん私の言葉の問題(英語が出来ない)もあるのだが、聞けば103の日本人スイマーは“この大会に参加するために来た”のだそうだ。日本のOWS大会が「この大会より優秀だ」と言いたくはないが、遠く日本からこのレースのためにだけを目的に来るスイマーの居ることを知って欲しいし、臨機応変に対応して欲しい。
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夕暮れの摩天楼(リバティ島から見たマンハッタン)

 夜、リバティ島から眺めるマンハッタンの夜景はとてもきれいだった。『夜でも泳がせるなら、もっと安全にスイマーにケミカルライトでも着けて泳がせて、そうすればスイマーのキラキラがリバティ島の周囲を輝かせ、それこそ“自由の女神の首飾りスイム”とでも名付ければ見ている人には綺麗だろうな』などと、勝手に企画などを考えていた。
 それにしても腹減ったな・・・。

 125stの地下鉄駅で降りてハーレムの街を我らがアパートに向かって歩く。時間は午後11時ころだろうか。確かに酔っ払いというか、変な黒人たちはたくさんいたが、すでに私たちおじさんsも“変な日本人”である。“怖い”と思う気持ちは少なくなっていた。
 アパートに戻ると湘南の主さんは「今、食べると、明日の朝、胃がもたれるから」と夕食をキャンセルした。『食べないと餓死してしまう』と、腹減らしの私はサッと素麺を茹でる。
 そういえば昔、、、、、ロンドンでテロ事件があり、その日にヒースローに到着したキンちゃんと私は、、、、、這う這うの体でドーバーのアパートに到着した。すでに真夜中で、、、、この時キンちゃんが素麺を作ってくれて、、、あれは旨かったなぁ~~~・・・。
 ビールを飲み、素麺を食べながら思い出に浸っていた。

8月15日 再び国連へ グランドセントラルステーション クライスラービル

 今日は少し休もうと、午前中はアパートの中でウダウダしていた。明日、参加する「リバティ島一周スイム」の主催者(“マンハッタン島一周スイム”と同じ)から「大会前日のネット会議に参加するように」との案内がメールで来た。夕方からだがマンハッタンの大会でボランティア(オブザーバー)をした時にもやはり「オブザーバーを対象にしたネット会議に参加するように」との案内をもらい、参加してみたが英語なのでチンプンカンプン。。。。。。。
 今回、参加してもきっとチンプンカンプン。。。。。。。想像できるのは、英語が出来て大会初参加の人たちには充分に役に立つであろう。しかしある程度参加経験のある人にはそれほど役立つように感じられない。まあ結果的には参加しなかったのだからわからないが、送られてくるメールのスケジュールで充分だと予想した。
 それにしても何で「大会前日の会議」なのだろう?? しかもネット会議。ネット環境のない人にはどのように対応するのだろう?? この辺が私には理解できない。スタッフ内での会議ならまだしも、スイマーまで巻き込んでとなると、むしろ主催者に“不安”を感じてしまう。そんなことを感ずるのは私だけだろうか??

 この会議は申し訳ないが不参加とさせていただいて、午後から再び国連本部に行った。どうしても湘南の主さんに国連本部の中を見て欲しかった。何故ならば、1998年に来た時に案内された日本人ガイドに大きく感動したからだ。
 昔、、、、、、、、学生時代から私は赤十字のボランティアを7年ほど続けた。国際赤十字では、戦地にも武器を持たずに行く。ところが国連では戦地には、武器を持って出かけるのだ。この辺が赤十字と国連の大きな違い。まあ話すと長くなるのでやめるが、とにかく湘南の主さんに国連の中を見て欲しかった。

 ところが行ってみると、、、、、、、入口にいる門番のような警備員に「ネットで申し込んでから来るように」と言われた。ここでもネットか!!??!!
 門前払いの私たちは腹癒せではないのだが「グランドセントラルステーション」に行った。まあ言ってみれば「ただの駅」なのだが、大理石でできた駅舎は映画の中にでもよく出てくる。それに日本の東京で言うと「東京駅」なのだが、「ニューヨークにこれほどの列車が走っていたのか!!??!!」と驚く。
 何故ならばニューヨークの列車のほとんどが地下を走っており、陸上からではほとんど列車を見ることが出来ないからだ。
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駅舎の中

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駅の正面玄関

 次に行ったのは「クライスラービル」。ニューヨークに来てから“よく目立つビル”として湘南の主さんも私も気になっていたからだ。まあ中には入っても上には上がれなかったが、どんなビルかわかって満足した。
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クライスラービルと湘南の主さん

8月14日 プールとリトルイタリー(素麺とめんつゆ)

 私たちが滞在しているアパートから徒歩10分くらいのところにプールがある。今日は「そこに泳ぎに行こう」ということになった。そのプールは市営で使用料は何と無料(タダ)なのだ!!(ラッキー!!)
 ところが相変わらず日本と違うのは、入口に門番のおばさんがいて、荷物のチェックをするのだ。何のチェックかと言うと、ロッカーの錠前を持っているか、水着を持っているかの二点である。
 錠前は前の「8月8日 NYCプールのカギは?」でも書いたように、オー先生が錠前を買っておいてくれた。それを持っているから大丈夫! 水着もちゃんと持っているが、ちゃんとおばさんに広げて見せないといけないのには驚いた!!
 取り敢えず“問題無し”ということで中に入れたのだが、問題は私が錠前を開けられる確率が50パーセント。湘南の主さんが90パーセント。まあ大丈夫だろうとは思うが、もし湘南の主さんでも開けられなかったらどうしよう。。。というのが不安だった。だが“当たって砕けろ”だ。何とかなるだろう。
 プールは屋外で長水路(50m)だが横に三つに区切られていて、端っこの方は学校の授業だと思われる子どもたちのグループが陣取っていた。真ん中は三人くらいの男の子が遊んでおり、反対の端っこは女の子二人が遊んでいた。そこで私たちは女の子たちの居るエリアに入り、女の子たちとは離れた場所で横方向に泳ぎ始めた。横方向の距離は25ヤードである。
 プールの壁面が白く、底と壁につながる角が丸くなっているので壁が見難い。またスイミングゴーグルを使っているのは私たちだけであった。
 1,000m以上は泳いだかな? プールが空いているのもあるのか監視員たちはだらしなく笛を吹いたり怒鳴ったりして遊んでいるように見えた。まあ、この辺で“満足”ということでプールを後にした。

P8140094プールを出てきた私(湘南の主さん写真集より)

 次の目的地はチャイナタウンにある「東京」と呼ぶ日本食食品店である。素麺が残っているのに麺汁が無くなったからだ。チャイナタウンは「リトルイタリー」の隣だ。地下鉄で行くが、相変わらず迷う。そして何とか見つけると過去の記憶が蘇るのである。オー先生がいたときは「ここで降りると混雑しているから隣の駅で降りた方が良い」とか。。。。。。。。
 何で行く前に思い出さないのか不思議だが、現場に行くと「ここで探した」とか「ここで待ち合わせをした」とか、、、、不思議と時間までも思い出す。どうしてだろう?????

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チャイナタウンにある日本食食品店「東京市場」(湘南の主さん写真集より)

 素麺と麺汁を手に入れても私たちはアパートに近いスーパーで明日の朝食の食材を調達する。そこで湘南の主さんが「ビフテキを食べよう」と言いだし、おそらく一枚1㎏近くある大きな牛肉を二枚購入。一枚5ドルくらいだから安い!!!
 アパートに戻るとさっそく食糧庁長官の私が塩、コショウをして、肉をたたいて下拵えをする。そこに帰ってきたアパートの大家さんが「普通の旅行者は買ってそのまま焼くが、下拵えをする人は珍しい」と言われた。
 自分で言うのも何だが、美味かった!!!!!
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掌よりはるかに大きいビフテキ(湘南の主さん写真集より)

8月13日 下見、グラウンドゼロ&セントラルパーク

 ニューヨークナビゲーターであるオー先生が帰られた私たちにとってはまだ大きな不安があった。次回参加予定の「リバティ・スイム」の集合場所である“リバティ島”に行く交通機関がハッキリとわかっていなかったからである。
 フェリー乗り場はマンハッタンの最南部にあるのだが、そこまでどうやって行くか。地下鉄④、⑤または⑥に乗ってマンハッタン最南部の駅まで行ってそこからは徒歩。とりあえず当日に迷うのが最も不安な我らが“おじさんs”は下見に行くことにした。

 ナビゲーターはオー先生に換わって湘南の主さんが地図を広げてにらめっこする。目的の駅は「ボウリング・グリーン」。バッテリーパークの入口にある地下鉄の駅だ。小雨降る中、おじさんsは地下鉄に乗る。
 ボウリング・グリーンで降りて外に出ると大きなフェリー案内の看板が! その案内に従ってフェリー乗り場へ行くと案の定間違いだ。そこはスタッテン・アイランド行きのフェリー乗り場。側にいた警察官に聞くと、リバティ・アイランド行きのフェリー乗り場はバッテリーパークの横にある。
 確認のため見に行くと、一隻のフェリーが帰ってきた。右舷接岸(日本のほとんどのフェリーは左舷接岸)だが、日本ほど丁寧なものではなく、桟橋を掛けると揺れる中でも旅客を降ろしてしまう。ちょっと強引??
 (ドイツのライン下りで乗るフェリーの乗降は何と船首接岸。つまり頭から港に飛び込んでスクリューを回しながら船を押し付けた状態で旅客は乗り降りをする。荒っぽいが乗降時間は極端に短い)
 そして降り口には何と傘を売る商売人が「傘~!」、「傘~!」と売っていた。一本5ドル也。まあ何処にでも商魂逞しい方々は要るものだ!

 リバティ・アイランド行きのフェリー乗り場を確認した後、おじさんsは「グラウンドゼロ」を見に行くことにした。バッテリーパークから近いし、前にピア25からバッテリーパークへ行った時は工事現場なので大きく迂回したから中は見ていないのだ。
 1998年に私が来たときはまだ「世界貿易センタービル」が建っていたし、それに上ったことがある。2001年の9.11があったときは、「ああ、あのビルが・・・」と驚いたものだ。
 グラウンドゼロへ行ったころには大雨になっていて、メモリアルホールへ避難するように入った。そこでは奥でビデオが流されていて、その後のグラウンドゼロが今では大きなビルが建てられつつあって、躍動するアメリカを象徴するような内容だった。
 外に出ると相変わらずの大雨が。。。。。。。。急いでデリに入って昼食を取る。するとようやく雨が上がり、青空が出てきていた。
 湘南の主さんはカメラのバッテリーを欲しがっていて、“5th Av, 52 St”辺りからカメラ屋さんを探しながら北に向かって歩いた。
 するとセントラルパークが現れ、バッテリーは買わずにセントラルパークを散歩しながら北上した。
 今日はよく歩いた。10km以上。。。。。。。。。
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セントラルパークに居たシャボン玉おじさん
大きなシャボン玉の中に小さなシャボン玉を作る

8月12日 オー先生のご帰国&私たちのお引越し

 今日はオー先生がご帰国になられる。そして湘南の主さんと私が引っ越しなのだ。厳密なタイムテーブルで言うと、午前10時までに私たちは今のアパートを出なければならない。オー先生の出発はJFK空港を午後8時発のフライト。そして次の私たちのアパートは午後3時以降のチェックイン。つまり午後10時以降午後3時まで、大きなスーツケースなど荷物を持って時間が来るまで私たちは路頭に迷っていなければならない。
 ところがどっこいすでにニューヨーク生活一週間ほどになると何となく“要領”みたいなものがつかめていて、アパートのチェックアウトは午前11時まで平気。そして次のアパートのチェックインは午後2時でも平気ということがわかってきていた。この余禄の2時間は大きい。

 今回、オー先生はiPodを持って来られていて、ニューヨークの交通事情を丹念に調べられていた。そこで「どこそこに行くには、○のバスに乗って△停留所で□のバスに乗り換え、×駅で◎地下鉄に乗り換えたら▽駅で降りればよい」など、まさにナビゲーターなのだ。歩いているときも記憶力は抜群で、「どちらの方向に歩けば◆通りがある」など、とても便利!!!
 そこで私たちも学習したことは、ニューヨークは南北に走る“アベニュー”と東西に走る“ストリート”で碁盤の目のようになっており、アベニューもストリートもほとんどに“番号”で表示されていて「わかりやすい」ということだ。もちろんすべてがすべて番号で表記されることはないし、例えば次に湘南の主さんと私が滞在するアパートの住所は「レキシントン・アベニュー、123ストリート」となるのだが、それをニューヨークに詳しい方に言えば「ああ、ハーレムだね」とたちどころにわかってしまうほどわかりやすい。さらにオー先生なら行き方までわかってしまう。
 そう、次回、私たちが滞在するところはハーレム(マンハッタンでは北の方)なのだ。“ハーレム”と言えば“ジャズ”と、私などイメージしてしまう。例えば“ハーレム・ノクターン”(“セントルイス・ブルース”ではない)などを思い起こしてしまう。
 しかし現実は黒人街でニューヨークでも犯罪が多発する地域。あまり“安全”とは言えないのだが、何と言ってもアパートの価格の安さが魅力。とりあえず“住めば都”にしてしまうのが私の信条。“危険”と、それに対する“対処”を心がけていれば「大丈夫」と思っていた。それに同じアパートに住む日本人の若い女性が一人いることも知ったので“大丈夫思考”は倍増した。

 とりあえず私たちの移行先アパートは、バスなら“103”でアップタウン方向なら“3rd Av, 123 St”、ダウンタウン方面なら“Lexington Av, 123 St”(アパート目の前)に停留所があり、地下鉄なら“125 St”で④、⑤(快速)、⑥(各駅)が止まる交通には便利なところであった。
 そこへ全員でバス移動。もちろんお昼過ぎには部屋に入れた。JFK空港へ全員で行くことになる。もちろんバス、地下鉄、電車での移動。ナビゲーターはオー先生。そこに行く私たち湘南の主さん、私の理由は自分たちの帰る下見目的。購入した“七日間”の「バス、地下鉄フリー切符」は存分に使わせていただいた。
 空港で遅いお昼とビールをいただきながら別れを惜しんだ。
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ニューヨークのちょっと大きな公園では“必ず”と言ってよいほどリスが住んでいる。

8月11日 無彩(むさい)オヤジたち(60歳代)、おのぼりさんになる。

 今日、彩のあるお姉さま方は帰る。花から花へと舞う蝶のように彩を求めて忙しいのだ。打って変わって無彩オヤジたちは残ってニューヨークを散策する。そう、いつもは泳いでばかりであまりやったことのない観光だ。
 ちなみにキンちゃんとドーバーへ行くと着いた翌日から泳ぎだし、帰るその日まで毎日泳ぐ。まあキンちゃん以外と泳ぎに行っても目的が“水泳”なのであまり観光などしたことがない。ところが今回は、、、、、ニューヨークの海に、あるいは川でも構わないのだが、海水浴場(川水浴場?)があれば毎日泳いでいたであろう。しかしそれがない。プールはあるが、プール練習は日本でも出来る。ニューヨークでは練習で海や川が泳げない。したがって観光になるのだ。

 まずは国連本部。イーストリバーを泳いで登っていくときにそのビルは見える。以前(1998年)ニューヨークへ来た時に国連本部へ来たことがある。その時に日本語のガイドツアーに参加したのだが、今回は日曜もあって本部内はお休み。地下のお土産ショップだけ開いていた。本部内に入れなくて残念!
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国連の地下にてオー先生

 国連からエンパイヤ・ステート・ビルへの移動中、ドミニカ共和国のパレードがあって道路が閉鎖されていた。何でもニューヨークではしょっちゅうパレードがあるらしい。とにかく人と熱気でムンムンしていた。
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ドミニカ共和国のパレード

 エンパイヤ・ステート・ビルは上るのに“1時間は並ぶ”とか。。。。。行列に並ぶのをあまり好まないおじさんたちであるが、空いていたので上ることにした。ところが、、、、、、、、、チケットを買うまで歩き、エレベーターに乗るまでに歩き、結局は上に上がるまで1時間くらいかかったような?????????
 これでキングコングになれたかな???????
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エンパイア・ステート・ビルから眺めたマンハッタン(南を向いている)

8月10日 マンハッタン島リレー

 おじさんたちの朝は早い。暗いうちにアパートを出て、暗いうちにピア25へ到着。そう、大会主催者より早い一番の到着なのだ。そして大会スタッフによる会場設営を見物させてもらった。
 受付が始まり我らがチームも受付を完了。ボランティアとして私もオブザーバーとしての受付が完了。「チーム17」のオブザーバーだ。それもその場で決まった。。。。。まあそれも良いだろう。『クジみたいなものだ』と気持ちを切り替える。そのチームに行って挨拶をする。すると、、、、、もう一人のオブザーバーが「チーム17」にやって来た。そう、オブザーバーのダブルブッキングなのだ。さすがいい加減な主催者によるいい加減な大会。ますます私を落胆させる。が、とりあえずここまできてしまったので全力を尽くすことにしよう!

1. 大会概要
 ニューヨークのマンハッタンは「マンハッタン島」と呼ばれる“島”で、南北に最大で20km、東西に最大5kmと、南北にひょろ長い島である。この島を反時計回りに泳いで一周するレース。距離は約45km。
 時計でいう“12時(最北端)”でハドソンリバーとハーレムリバーが合流している。ハドソンリバーはマンハッタン島の西側(9時方向)を南下するが、川筋はほぼ一直線。“6時(最南端)”は海で、「バッテリー・パーク」と呼ばれる公園があり、このバッテリー・パークがこのレースのスタート地点。ちなみにバッテリー・パーク南洋上約1,500mに“リバティ島”があり、ここに「自由の女神像」が立っている。時計で言えば振り子の重りの部分だろうか?

 スタート後、スイマーは東(5時方向)に進路を取り、イーストリバーを北上する。(ちなみに「イーストリバーは川ではなく海だ」と言う説を取られる方もおられるが、“リバー”と名がついているのでここでは“川”と表現をする)

  • 交代ポイント(4名リレーの場合)
  1. ウィリアムスバーグ橋(5時の位置)
  2. クィーンズバーグ橋(4時の位置)
  3. フット橋(3時の位置):ハーレムリバーに入る
  4. スイマーが45分泳いだ地点
  5. そこから先は30分交代

 このレースの醍醐味は、何と言っても海の潮流を利用して川を上ることだ。つまり海が満潮に向かう上げ潮の時にバッテリー・パークをスタートする。スイマーはこの上げ潮に乗ってイーストリバーを北上するのだ。
 海は満潮を迎えると下げ潮に入る。下げ潮になれば当然、川の流れは上流から下流に向かって流れる。したがって満潮時までにハドソンリバーへ出ること。ノンビリしているとイーストリバーを戻ってしまうことになりかねない。だからスタート後、5時間30分でハドソンリバーに出なければならないルールがある。
 ただし、ハドソンリバーに出てしまえば浮いていても下流に流される。そこを下流に向かって泳げば思いもよらないスピードが出て楽しい!
 詳しいコース案内はこちら(英語)

2.レース
 残念ながら我らが日本人チームの船に私が乗れなかったので我がチームのレポートはできないが、私がオブザーバーをした17番のチーム「Swim the Citi」で紹介しよう。
 このチームは6名のリレー。(レースには4名と6名のリレーがある。日本人チームは4名)

  • 1泳:Burke Sims 22歳 男性
  • 2泳:Ryan Chiu 23歳 男性
  • 3泳;Erin Kiernan 23歳 女性 チームキャプテン
  • 4泳:Bridget O'Connor 27 女性
  • 5泳:Michael Devlin 23歳 男性
  • 6泳:Chris Fitzpatrick 24歳 男性

 まあ全員20代と、若いチームだ。

* 日本人チーム4名の合計年齢228歳 平均年齢57歳
* Swim the Citi6名の合計年齢142歳 平均年齢23.7歳

 ルールはほぼ4名リレーと同様で、1泳から3泳迄は指定された橋まで泳ぐことになっている。それ以降は1巡目が45分、2巡目以降は30分交代になるが、ピア25(時計で言うと6時30分の位置)を超したら交代は許されない、つまりゴールまで泳ぐことになる。

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集合写真(Swim the Citi)

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ビデオ撮影(優勝候補で人気がある)

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これは2泳以降のスイマーを乗せて、ピア25から出発する日本人チームの船。

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1泳はお迎えのボートが来るまで待機する。童話「安寿と厨子王」の厨子王丸のように待機する湘南の主さん

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すべての1泳を乗せてスタート地点のバッテリー・パークに移動する。

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09:38スタート。船は上流で待機。スイマーはカヤッカーが連れて来てくれる。(我がチームのカヤッカー)

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イーストリバーでは3ノットの速さで上流に流れている。

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そこを各チーム一丸となって上って来る。

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スタンバイ完了! 2泳のRyan君

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各1泳、ラストスパート!!(10:17交代)

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スイマーのバックの岩を見ていただければお分かりと思うが、水はすごい勢いで上流に流れている。

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そこで力泳を見せるRyan君

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3泳のErinさん(ピントが甘くてゴメンね)

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4泳のBridgetさん

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5泳のMichael(マイク)君

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6泳のChris君

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船の上ではリラックスして応援

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2巡目へ。1泳のBurke君

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力泳は続く

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何とカヤッカーのためのエイドステーションが設置してある。

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時計で言う「12時の位置」。ハドソンリバーに出る前の難所を通過中。

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2巡目、3泳のErinさん。今度はピントを合わせてパチリ!

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問題発生! ハドソンリバーに出る直前の鉄橋が列車通過で閉まってしまった。スイマーとカヤッカーは通過できるが、船は待機。

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回転式の陸橋がやっと開き、船は通過できたが3泳のErinさんは10分超過して泳いだ。

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ハドソンリバーに出るとすぐにあるジョージ・ワシントン橋。

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11番のチームとはずっとデッドヒートを繰り返している。

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南に下ってくると観客も増える、

我らがチーム「Swim the Citi」(17)は、8時間12分20秒で6名リレーの部、優勝!

 ちなみに我らが日本人チーム「津軽海峡水泳倶楽部」(12)は8時間43分35秒で4名リレーの部、 7位でした。

8月9日 合流

 6日、キンちゃんは日本を発ってボストンでメイン州にお住いのファルマウスミーさんとお会いし、8日、お二人でニューヨークにやって来た。そして本日、ようやく連絡が取れるようになった。これで明日に泳ぐ「マンハッタン島一周スイムリレー」のメンバーが集まったわけだ。ちょっとは彩が生まれたかな?
 ただ大会主催者は大会前日になって参加選手を相手にインターネットで会議をやっている。まあ英語が堪能なファルマウスミーさんが参加してくれているのだが、前日になって会議とはいかがなものだろうか??
 朝、ファルマウスミーさんからの「“ピア(港)25”は選手の集合場所だし乗船場所でもあるから見てきた方が良い」とのお勧めもあり、ニューヨークに不慣れな無彩(むさい)おじさんたちは交通に心配があるのでアドバイス通り見に行くことにした。そう、同じチームでも無彩おじさんたちはなるべく安い自炊式のアパートを宿にして、彩のあるお姉さまたちはウォールストリートの高級ホテルに宿泊されている。何でも安全と快適を優先する。やはり「彩」はお金が掛かるのだ。
 ちなみにファルマウスミーさんは午後のスタッフ会議まで参加されるから、実際にお会いできるのは夕方以降だ。こんな大会前日にバタバタしている大会主催者に、「大会申込みに当たっては幾多の条件があって、それをクリアするのに大変だった。それをようやくクリアして遠い日本からはるばるとやって来たのに、この無様な失態は何だ!」と言ってやりたかった。

 午前中に“ピア25”を確認したおじさんたちは、夕方まで時間があるのでマンハッタン最南端バッテリー・パークまで散歩することにした。途中、例の“グラウンド・ゼロ”がある。そこは歩行者がまっすぐに通れないので海側(川側?)から迂回し、明日にカヤッカーたちが出入りする“ノース・コーベ”で一休み。そしてスタート地点のバッテリー・パークを見物してチャイナタウンへ行った。
 おじさんたちの宿泊場所はアパートで自炊式。素麺を持ってきても素麺汁を忘れたのだ。チャイナタウンの「東京」という日本食ショップを探し当てて“めんつゆ”を購入。それでもまだ時間がある。そこで早めに高級ホテルに近い路上レストラン(?)のテーブルでビールを飲みつつ時間をつぶすことにした。おじさんたちは黙って大会主催者の言いなりになっているお姉さま方の指示に従う。たまたま私もパソコンを持って来ているが、パソコンを持って来ていないスイマーに向かって大会主催者はどうやって指示出しをするつもりなのだろう???
 夕方、ようやく全員集合。ホテル前にある中華レストランで会議の報告。ファルマウスミーさんによると、リレーの交代ポイントなどに大きくルール変更があった。これも大会前日にいかがなものかと思うのだが、何よりもショックだったのは私が自分のチームの船に乗れないことだった。
 今回、チームキャプテンとしてニューヨークに来ている私だが、あくまでも代行スイマー。チーム内で誰かが何らかの理由で泳げなくなった場合に代行して泳ぐ役目だが、今回は全員が揃っている。同時に大会ルールには「スイマー以外のチーム関係者は船に乗れない」となっている。そこで会議に参加したファルマウスミーさんは私に「乗れない」と言う。ところが私たちチームの船のキャプテンであるトウマさん(ニューヨーク在住の日系三世)は「乗っても構わない」と言っているのだ。
 なので「船に乗りたい。私が乗ることによってチームが失格になっても良い。それでも船に乗りたい」と申し出たのだが、ファルマウスミーさんの真面目な性格がそれを許さなかった。結局は私はボランティアとして他のチームのオブザーバーで他の船に乗ることになった。
 まあ大会前日にボランティアとしてオブザーバーにしてしまう大会主催者側もどうかと思うし、思ってもみない予想展開になったが、人様のためになるなら“それも良しとしよう”と考え方を変えることにした。ちなみに私には“オブザーバーをやらせりゃ世界一”という自負がある。ドーバーや津軽、その他の海峡で鍛えたオブザービングのテクニックは安くない。それをボランティアとして提供してしまうのだから、大会主催者には普通の感謝では済まされないところだ。しかしこのいい加減な団体なら、それさえも感じないであろう。

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ようやく全員集合!

8月8日 NYCプールのカギは?

 今日はプールへ泳ぎに行くことになった。私たちはみんな、NYCへ来るために休暇を取るのが必死で、出発直前の多忙を通り越すため、ほとんど泳ぐ練習が出来ていなかったからだ。それこそ私も含めて一週間以上泳いでいない日々が続いていた。そこで久しぶりに泳ぎに行くことになったのだ。
 インターネットでNYCのプールを探すといろいろ出てくるが、天気予報では“雨”を予報していたので屋内プールへ行くことになった。まあ濡れれば雨でも関係ないのだが、東京のように集中豪雨でプールが閉鎖になっては面白くない。そこでマンハッタンでも北の方になる市立の屋内プールへ行くことになった。
 地下鉄の駅名は“14ストリート”で乗って“137ストリート”で降りる。つまり若い番号の通り名は南で、老けた番号になるほど北になる。これはわかりやすい! ただし各ストリート一つずつに駅があるのではなく、3ストリート先とか、時に10ストリートも駅がないことがある。しかも車内放送はないので、注意深く降りる駅を見ていなければならない。

 さて、皆さんには日本のプールにある更衣室のロッカーをイメージして欲しい。最近の新しいプールではカード式のロッカーもあるが、ちょっと古いタイプではコイン式のロッカーである。いずれにせよ指定されたカード、またはコインを投入すると閉まる仕組みだ。
 ところがNYCのプールには更衣室にロッカーはあるのだが、そのロッカーに鍵が無い。あるのはロッカーの扉に錠前をかける穴だけだ。つまり「盗まれたくない者は自分で錠前を持ってきなさいよ」ということだ。しかも錠前はプールの受付で5ドル50で売っている。プールの入場料は一人2ドルに対し、一つの錠前が5ドル50は高くないか!!??!!
 当然、私たちは一つの錠前を買って一つのロッカーに三人分の荷物をギュウギュウ詰に押し込み、泳ぎに行った。

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 インターネットの情報では“50m屋内プール”とあったが、真ん中で横断するように仕切ってあって、仕切った片側でしか公開していなかった。つまり50m方向では泳げない。同時に“完泳コース”とか、そういう“泳ぐためのコース”、“遊ぶためのエリア”などの仕切りがなく、人と人とがぶつかり放題であった。
 プールには当初、子どもたちの団体が外のプールを占拠していて、私たちが入場したころから屋内に移ってきた。したがって私たちは外のプールで泳ぐことになるのだが、屋内プールを目指してわざわざ遠い北のプールまで来ることはなかったようだ。
 外のプールは水温が25℃くらいか!? 30℃もある東京のプールから比べると私たちにはちょうど良い。
 ただ、長さは25mもない。これは見た目でも泳いでみてもわかった。感覚的に“22~23m”である。そこで聞いてみると“25ヤード”とのこと。つまり“23m弱”(1ヤード=0.9144m×25=22.86m)。日ごろから鍛えてある感覚はハンパじゃない!

 泳ぎ終えてロッカー室に行くと、、、、、、、錠前が開かない。。。。。。。。。説明書に書いてある通り、“36”、“24”、“10”とキーを廻すのだが、錠前はピクリともしなかった。私たち三人が交互に挑戦しても開かなかった。仕方なく係りの人を呼んで開けてもらったが、係りの人が一発で開けるのを見た私たち三人は、「どうやったのか教えて!」と、係りの人を取り囲んだ。
 まあ教わってオー先生や湘南の主さんは開けられるようになったのだが、何故か私は開いたり開かなかったり、、、、、、、どうしてだろう???????

8月7日 無彩(むさい)オヤジたち(60歳代)、NYCを観光。

 空港で手に入れた観光情報によると、マンハッタン島を一周する船のクルーズがある。まさに今回の目的、“マンハッタン島一周スイムレース”に参加する私たちにはピッタリのクルーズなので迷わず乗ることにした。
 出航は午前10時。2時間半のクルーズになる。しかも65歳以上はシニアになって、一般大人38ドルのところ、5ドル安い33ドルで乗船可能。オー先生と湘南の主さんはシニア、私は一般。残念!!!

 乗船場所の“ピア83”まで地下鉄で行こうとして、アパートの近くの地下鉄の駅まで行ったのだが、反対方向に行くプラットホームに入ってしまい、逆方向に行くプラットホームに行くにはいったん外に出て、道路の反対側から入らなければならず、地下鉄に乗るにはカードを購入しなければならないのだが、その購入も現金ではダメでクレジット・カードを使用する。。。。。。まあNYC初心者には面倒なことばかり。。。。。。。。
 結局は10時の出航に間に合わせるため、再びタクシー(イエロー・キャブ)で行くことになった。

 船は“ピア83”からハドソン川を下り、アメリカのシンボル(?)にもなっている“リバティ(自由の女神像)”を見物。そこからイースト・リバーを北上する。

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リバティ

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リバティ近くからマンハッタン島を眺める。手前にはバッテリー・パークがあり、レースはそこからスタート予定だ。

 マンハッタン島最北端でハドソン川に出て南下し、ピア83で一周が終わる。その隣の隣のピア85では航空母艦“イントレピッド”の一般公開をやっていた。そこでイントレピッド見物。

 その後、持参するのを忘れた素麺汁や調味料を買いにチャイナ・タウンまで地下鉄で行く。それはメイン州にお住いのファルマウスミーさんからのアドバイスだった。ようやく日本食スーパーを見つけて麺汁や調味料を調達。
 この時点で私たちはたいへん疲れていて、雨が降ってきたのも手伝って再びタクシー(イエロー・キャブ)で帰ることになった。
 帰ってビールを飲んで素麺食べるとバタン、キュー。そのまま寝てしまった。

8月6日 無彩(むさい)オヤジたち(60歳代)、NYCへ行く。

 8月6日朝6時35分、羽田発のAA(アメリカン航空)便で、Dr. O(オー先生)、湘南の主さん、私の“トリオ・ザ・60代s”はミューヨークへ向かって旅立った。

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湘南の主さんとオー先生(羽田空港にて)

 ニューヨークまで飛ぶ航路はイメージと違っていて、羽田からほぼ北に進路をとり、北海道上空、オホーツク海上空、アラスカ上空、カナダ上空、ニューヨークと飛ぶのである。イメージとしては太平洋上空を飛ぶのかと思っていたので大違いだ。
 それと不思議なのが羽田を“8月6日午前6時35分”に出て、JFK(ジョン・F・ケネディ国際空港)到着が“8月6日午前6時35分”と同じ時間なのだ。13時間も飛行機に乗って、日付変更線を通過するのはわかるが、どうして同じ日の同じ時間にニューヨークに着くのだろう??? やはり不思議だ。

 JFK到着が朝早かったので、アパート(私たちの滞在は高いホテルではなく、安いアパート)のチェックインができる午後3時まで空港で食事をしたりビールを飲んだり、、、、、それでも時間を持て余し、電話して午後2時にはアパートの管理会社へ鍵を取りに行くことにした。
 それでも空港でNYCの地図や情報を入手した。交通網やイベントとか観光情報とか、、、、これがなかなか有意義な情報で私たちにはありがたい。まあ御用とお急ぎでない方は空港でいろいろな情報が入手できる。お勧めである。

 交通機関に不慣れな私たちはタクシー(イエロー・キャブ)でニューヨーク市内へ。その運ちゃん、ロシア人だそうだが飛ばす、飛ばす!!(東京のは“都バス”。アホ! 60代オヤジギャグで失礼しました!)
 割り込みなんて当たり前! 幅寄せはするわ、急発進、急ブレーキはするわ、もー、たいへん!! ちょっと怖かったなぁ~・・・。

 午後3時ちょっと前にはアパートへ到着。荷物の算段をするとさっそく市内へと繰り出して行った。近くには大きな公園があり、若者たちが野球やらバスケットボールやらを楽しんでいた。また公園内ではお年寄りたちが散歩を楽しんでいる。そこを通過してちょっと歩くとデリ(コンビニ?)やらスーパーやらレストランがあって、便利なところである。
 スーパーで食材を購入。デリではビールを購入し、レストランで夕食。屋外のテーブルに着き、外のNYCの景色を楽しみながらの夕食。美味しかったし、面白かったなぁ~。。。
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湘南の主さんとオー先生(外の道路沿いのテーブルに着く)

2006年 「月に向かって泳げ!」(5/5)

~サポーター(トラ)から見たドーバー~

5.ドーバーの素晴らしさ(エピローグ)
 ドーバー泳はさておきながら、ドーバーの素晴らしさはそこに集まるスイマーの国際性だと思う。今回もイギリスはもとよりヨーロッパ近隣諸国のスイマーはもちろんのこと、南アフリカ、ロシア、アメリカ、中国、ラマンチャ、もちろん私たち日本もこれに加わるが、韓国もいた。みんな明るいスイマーばかりでワイワイ練習をする。そしてそれら多くのスイマーをサポートしているボランティアが素晴らしいのだ。そればかりではない。海を共用しているヨット、レガッタ、観光船、ダイバー船などなど、ものの見事に共有している。
 日本の海水浴場のような海の家はない。当然シャワー設備、更衣室もない。トイレは歩いて5分程度。監視員もいない。アイスクリーム屋が道路で営業しているくらいで、他にあるのはゴミ箱くらい。男女ともビーチでタオルを巻いて更衣をし、練習が終わればシャワーも浴びずにそのまま拭いて着替える。それこそ練習が終わると跡形も無いただのビーチ。したがってドーバーではスイマーが「どこでも更衣室」を出来なければならない。ま、日本でも冬の海練習をした経験のある人はわかると思う。
 そんなビーチだが潮の干満で海面が移動すると、スイマーのサンダルを波打ち際まで移動してくれるボランティアがいる。1時間毎に上がってくるスイマーに栄養補給品を波打ち際まで届けてくれるボランティアがいる。毎回スイマーの泳ぐ時間によってナンバリングされ、色違いのスイムキャップを貸してくれるボランティアがいる。そのスイムキャップの色と番号で毎回名簿が作られ、安全管理をしているボランティアがいる。慣れないスイマーには一緒に泳いでくれるボランティアがいる。もちろん一人でやってくるスイマーもたくさんいる。そういったスイマーでも安心して泳げるようガイドするボランティアもいる。「このビーチは施設などのハードは無い。しかし泳ぐためのソフトは充実している」と私は感じている。
 こういったボランティアのバックアップ、世界中から集まるスイマーの賑やかさ。こういった統合が「ドーバーを世界に君臨させるドーバーなんだな」、と感じる。
 いつだか私は自分のやってきたことを眞壁さんに聞いてもらったことがある。世界のドーバーに対して日本の、日本人の「海観」みたいなものを批判させていただいた。日本ではドーバーみたいなことが出来ない。もし出来るようにするならば、それはものすごく時間が掛かる。結果的に日本では泳がない松崎さんのような日本人プロスイマーが生まれるし、藤田さんも最近、日本では泳ぎたがらない。まあ眞壁さんとの話は「なかなか日本では難しい」というところでまとまってしまった。
 しかし今後は地元「相模湾の泳ぐ主」になるそうだ。「現役100歳」を極める眞壁さんに爪の垢でももらうことにしよう。
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2006年 「月に向かって泳げ!」(4/5)

~サポーター(トラ)から見たドーバー~

4.いろいろ
 11時頃、我々の船は再びドーバーとカレーを結ぶフェリーの航路上に入って行った。常時フェリーは3隻くらい見える。「まあよく通るなぁ~・・・」と感心して見ていると、「ん、ゴミかな?」と思った黒い物体が沈んで行った。距離にして50mくらい。しかしゴミなら波に揺られて再び浮いて来るはず。ところがそのゴミは浮いてこなかった。「ま、いっか!」とゴミの正体を見破る作業はあきらめた。だがまたゴミが現れては沈んで行った。「よし、ゴミの正体をつきとめてやる!」とさっき沈んだゴミ周辺の海域を注意深く見つめていた。「出た!」、イルカである。イルカがフェリーを追いかけていたのだ。すかさずカメラを持って来て撮影しようとするが、恥ずかしがり屋のイルカなのであろう、カメラを持って来ると現れない。あきらめてカメラを置いてくると現れた。どうもフェリーをあきらめて、こちらに興味を変えたようだ。二頭のイルカがこちらに向かっている。「チャンス!」と思い再びカメラを持って来るが、恥ずかしがり屋のイルカは潜って出て来ない。そこで撮影はあきらめた。しかしその後数回このイルカにはお会いした。
 イルカの存在など知る由も無く眞壁さんは泳ぎ続けている。GPSの航路の位置計測でほぼ藤田さんと同スピードで泳いでいるのがわかる。「そろそろ転流だな・・・」と思うとちゃんと転流するのだ。その内晴れていた空が曇り始めた。曇りではない。霧なのだ。もっと正確な表現をすれば、霧の中に我々が入って行ったと言った方が正しい。気温はグングン下がり、19℃、18℃と下がっていった。吐く息が白いのだ。トニーも私も同時に上着を着込んだ。お互いが同じことをしているので顔を合わせて笑った。幸いにもスイマーの眞壁さんにはわかっていないようだ。まあマイナスの要因が働くような状況をスイマーは知らない方が良い。しかしこの霧も面白い。「霧」と言うより上空5mに漂う「雲」なのだ。だから大型船が接近すると船体は見えているものの、甲板から上部は雲の中だ。したがって操舵室のパイロットからは外界が見えない。だから「ボー、ボー」と汽笛を鳴らしながら航海しているのだ。そんな霧の中を我々は進んで行った。
 霧(雲?)を出たのは午後4時頃だったように思う。フランスがハッキリ見えて、イギリスは霧(雲?)の向こうで見えなくなっていた。遠泳は単調な作業が続く。時間を見て計測して栄養補給をさせて記録を取る。私の作業はこれが延々と続くのだ。このくらいになってくると船全体のチームワークと言うか、スイマーの眞壁さんを中心としたハーモニーが出来上がってくる。言葉を超えてお互いがお互いを理解しているのだ。トニーが「お茶を飲まないか」と紅茶をマグカップいっぱいに入れてくれる。「飯を喰わないか」とクリスが食事を作って持ってきてくれる。私はこんなコミュニケーションがとれる輪の中に存在しているのが好きだ。サイモンとも仲良くなった。全員が眞壁さんの成功に向かって持ち場をこなしている。
 トニーの娘、すなわちサイモンにはお姉さんがいて、そのお姉さんはドーバーを泳いだ経験があるらしい。そのドーバー泳に感動したトニーは息子のサイモンにも同じ感動を味あわせたいと、オブザーバーをやらせているらしい。仲良し親子だ。
 風が吹いたのは午後5時頃に1時間くらい南の風が2~3m吹いただけで、それ以外は風も無い。したがって潮流は風など外界からの影響が少ないので、面白いように流れがわかる。転流時はホントにベタッとして海面が誰も泳いでいないジャンボプールのように平面となる。ところがこれが急流時になるとまるで川瀬のように波打って流れる。まあ日本の種子島から黒潮に乗って24時間泳いだ時(1993年夏)、やはり急流の潮で海面が凸凹になり、まるでスキー、モーグル競技のバーンのようになる。ひとつのコブの高さは2m程度で、これが四方八方に生まれる。これを「海瀬」と呼ぶらしいが、海にも「瀬」はあるのだ。
 いずれにせよ今回のドーバーが私の経験の中では1番風が無い。まあ霧が生まれるのは風が無い証拠だからだが、これほど無いのも珍しい。おそらく最もベーシックなドーバーを味わったスイマーが眞壁さんだと思う。その証拠ではないがナビでグリネ岬を目的地に取ったとき、グリネは右90゜方向でグリネにはぜんぜん近づかなかったものの、6時間後の転流でハーフポイントを過ぎるとまっすぐグリネに向かった。この時のスピードは流れも加わるので時速8kmを越していた。ところが再び6時間後の転流で今度はグリネから離れて行く。そうこうしているうちに夜の闇を迎えていくのだった。
 ちなみに眞壁さんの到着したフランスのビーチは、2001年2-wayリレーで小田切さんが折り返した場所、2002年1-wayソロでやはり小田切さんがゴールした場所、2005年1-wayソロで藤田さんがゴールした場所に近い。まあ小田切さんや藤田さんは明るいうちにゴールしたのでイメージがつかめるが、どんなところかを例えて言えば、千葉の九十九里浜のように延々と続く遠浅の浜を想像してもらえたら良い。まあ違うのは九十九里浜ほどフランスの浜は家が無いという点だ。いずれにせよこの例えも関東近県の人にしかわからないと思うが、なんとなくイメージは湧いただろうか?
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2006年 「月に向かって泳げ!」(3/5)

~サポーター(トラ)から見たドーバー~

3.出発
 8月6日(日)05:30起床。眞壁さんは日本から持参した「しゃぶしゃぶ餅」を、熱い味噌汁に入れてしゃぶしゃぶしながら食べた。私は我々が宿泊するメゾン・デュー・ゲスト・ハウスの女将、ダイアンが昨晩作ってくれた朝食の弁当をリュックに詰める。準備を整え06:45のタクシーでクロック・タワーに向かう。そこで他のパイロット、デイブ・ホワイトに会った。そこで昨日、ホワイトの船で泳いだはずの今年ドーバーで知り合った友達、イゴのことを聞いた。11時間台で泳いだそうである。良かった。彼は藤田さんがいたときから一緒に練習していた。これで私もモチベーションが上がる。

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左から:南アフリカの女性スイマー、レシミ(インド)、インド人男性スイマー、キンちゃん、イゴ(ウクライナ)

 ホワイトは彼の船「オーシャン・ブリーズ」で2001年2wayリレーのときにお世話になった。この時クリス・オズモンドは「クルー」として乗っていた。この時の会話で「今度オレも船を買ったから次回の指名はオレにして欲しい」と私に頼んでいたのだ。そこで翌年(2002)1wayリレーの時はクリスの船「シー・ファーラー」に依頼した。この時は眞壁さんも参加しているので船は知っているはず。しかし眞壁さんも私も共通認識として以前のシー・ファーラーではなかった。ちょっと小さくなった気がした。
 藤田さんのときに使用したニールの船「スバ」から比べると1.5倍くらい小さく、材質もスバの「鉄」に比べて「FRP」と軽い。まあ元々はクルーザーなのでおしなべて軽く造っているのであろう。エンジンをアイドリング状態にしてもクラッチをつなげばスイマーより速い。増してや軽い船は風に流される。そこでシー・アンカーやコーンを流して抵抗を増しているが、それでもクラッチを切らないと眞壁さんは置いていかれる。
 そんな船の乗組員はパイロットのクリス、クルーのトニー、オブザーバーのサイモンと私。またトニーとサイモンは親子でサイモンは17歳になる若者だ。
 07:20に出港。07:46シェイクスピア・ビーチから眞壁さんがスタートした。おそらくこの日、最初に泳ぎ出したスイマーだと思う。ドーバーの港から続々とスイマーを乗せた船が出てくる。天気は晴れ、波はない。滞在中ずっと吹き荒れていた風がいっさい無いのだ!水温は19℃。これなら行けるだろうと思った。
 順調に(?)流されてドーバー港の前を通過する。そして徐々にドーバーとカレーを結ぶフェリー航路上の中に入って行く。頻繁に通るフェリーの波に翻弄されるがそれ以外の波は無い。後から出発したホワイトの船が、テキサスのリレーチームを泳がせて追い越して行った。
 GPSが7月18日に13時間35分で泳いだ藤田さんの航跡を残しているが、まさにその航跡と平行して眞壁さんは進んで行った。そこで藤田さんの到着したグリネ岬を目的地にナビをさせた。ナビはグリネ岬を右にほぼ90°の角度で示している。ナビ上では目的地と90゜に進んでいるため、距離は縮まっていない(進んでいない)が、転流すればグリネ岬など一気に近づき、通り越してしまうかもしれないのだ。
 水温はシー・ファーラーに付いている水温計では18℃、眞壁さん持参の水温計では19℃を示していた。気温は朝が19℃。天気が良かったのでじきに気温は20℃を越した。風もなく、穏やかな日和だったので最高気温は23℃くらいである。
 操船はクリスとトニーの交替制。クリスの操船は比較的スイマーを船体の横に付けてくれるが、スイマーの前に出たがる傾向がある。これがトニーの操船になるとスイマーの眞壁さんをはるかにおいて先に行ってしまう。
私「トニー、スイマーを船の横に付けてくれ!」
トニー「横に付けると操船の邪魔なんだ!」
 お陰で眞壁さんはヘッドアップして船を確認しなければならない。長距離スイマーには余計な労力になるのだ。証拠にヘッドアップを怠ると眞壁さんは船に引かれているシー・アンカーにぶつかりそうになるくらい船尾に回ってしまう。
 「トニー、スイマーを船の横に付けてくれ!」と何回お願いしたことか!

2006年 「月に向かって泳げ!」(2/5)

~サポーター(トラ)から見たドーバー~

2.「月に向かって泳げ!」
 「月に向かって泳げ!」。これは眞壁さんがフランスのビーチに到着する折に支援船シー・ファーラーのパイロット、クリスが「先に行け!」の意味で怒鳴ったものだ。その光景は月明かりが一筋の「道」のように反射する海面に、クルーのトニーが漕ぐゴムボートとその横を泳ぐ眞壁さんとの両人が、月に向かって進んでいる証拠の揺れる月光とシルエットを残してフランスに向かって行くシーンだった。トニーの胸からはウルトラマンのカラータイマーのようにフラッシュライトが点滅する。まるでそれはハッピーエンドで終わる映画の終焉にも似た幕切れであった。
 ラストシーンとしては「これ以上の演出は無い!」と断言できるほどステキなものだったが、このシーンが生まれるほぼ1時間前、眞壁さんは私にこんな質問をした。「流されていますよねぇ?」と。
 その声は実に力なく聞こえた。もう15時間近く泳いでいるのだ。“力なく”は当たり前かもしれない。それでもこういった場面で“正直”を真情にしている私は「はい。流されています!」と答えるしかなかった。元気付けようと「いえ、流されていません。大丈夫です!」と偽りの答えをしても、それはスイマーにとって何のプラスにもならないことを私は熟知している。
 辺りは真っ暗で、月明かりとフランスのどこかの家々の明かりだけが見えている。その明かりは“近づく”ではなく、右へ右へと流れているだけなのだ。左の遠くにはフランスのフェリーポート「カレー」とその町の明かりが輝き、泳いでいる向きとは違うカレーの方向へと進んでいる。GPSで流れの速度を差し引いた眞壁さんのみの泳速を算出すると、現在は時速1kmのスピードしか出ていない。それは泳いでいる方よりも、算出した私自身のサポートする自信を奪う条件が整っていたような気がする。
 まあ後から聞けばその時に「20時間泳いでやる!」と腹をくくったらしいが、今から2年前に見た同じ光景が走馬灯のように私の頭を駆け巡っていた。それは藤田さんの2回目1-wayソロのチャレンジだった。
 1回目は2004年7月24日、03:30に泳ぎ始めた。しかし原因不明の大腿部痛のため9時間47分で断念した。フランスまでは3/4の地点だった。もう一度チャンスをもらい、同年7月30日09:57に泳ぎ始めた。当然2回目の臨時申し込みなので泳ぐ順番は4番目。必ずしも良いポジションではない。この時の様子を藤田さんの報告から引用する。

 空の色が夕日の紅から濃紺へと変化すると、直に満月が顔を出してきました。それにしても綺麗です。私は贅沢な泳者です。1回目は朝日、2回目は夕日と満月と、とても綺麗なものを観られたからです。

 そう、眞壁さんの状況と似ているのだ。
 藤田さん(キンちゃん:ミユキ)のときの状況を、私の報告で引用する。

 ちょうど時間は23時ころである。「石井、ちょっと・・・」と言ってパイロットのニールが操舵室まで私を案内した。そしてGPSの画面を見せながら説明を始めた。「分かっていると思うがこれが本船だ。この線は船の向き。この線は現在の本船が進行している方向を指している。で、ちょうど今が潮流の一番速いとき。すなわちこの進行方向に進んでしまうわけだ。今のミユキの泳ぐだけの速さはハーフ・ノット(時速1km程度)。フランスのビーチが湾曲しているため流されてフランスの方が遠くなって行く。まああと6時間すれば転流するから元に戻る。そうすればミユキはフランスまで行き着くことが出来るだろうが、あと6時間持つだろうか? それにもう一つ問題があって、それは仮にミユキが6時間持った場合、この本船はカレー港の前を往復しなければならなくなる。カレー港は夜間でも船の航行は激しい。まして夜間では見難いしとても危険が伴う。だから・・・、ミユキには悪いが早く終わらせるため泳ぐスピードを上げるかやめるかにしてくれ」。
 海ではキンちゃんが1回目同様「アウウゥゥ・・・」とか、「ハァァァ~」とか、大腿部の痛みと寒さに耐える声が頻繁に聞こえ続けている。
 「これは苦渋の判断だ」と、ニールは私の眼をじっと見つめながら静かに語った。外を見るとカレー港にともる明かりがやけにまぶしく見える。ニールの言いたいことはよく分かる。デッキに出てキンちゃんを呼ぶ。「キンちゃんよく聞いて。今ね、流れに流されているんだ。だからフランスが遠くになっちゃう。このままだと6時間後にはフランスまで泳ぎ着く事が出来るかも知れないけど、そのためにはカレー港の前を往復しなければならないんだ。カレー港は夜間でも船の往来が激しいそうで、ニールは"危険過ぎる"と言っている。あとはね、キンちゃんが速く泳ぐしかないんだけど、今の状態では無理だろう。だからやめようと思っているんだ」。「えっ、じゃあ上がって良いの?」。「いやもう少し泳ぎ続けたらね」。「・・・・・・」。自分の中では『好転するんではないだろうか』という期待があって思わず出た言葉だったが現実は好転しなかった。ニールの言うとおり、フランスの明かりをよく眼を凝らして見ても、現実に変化は無かった。「キンちゃん、やめよう。もう上がって良いよ」。静かに私は言った。11:33。その遠泳は13時間35分で終止符を打った。フランスまで残り3kmだった。

 このような苦渋の決断を、『眞壁さんにもしなければならないのか!?』と思った。

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ドーバー海峡豆知識

  • 場所と名前:ドーバー海峡はイギリスとフランスの間にある海峡で最狭部は34km程である。またドーバー海峡をイギリスでは「チャネル」と呼ぶ。そしてここを泳いで渡った人には「チャネル・スイマー」の称号が与えられる。
  • 位置と水温:ドーバー海峡は北緯51度付近にあり、これを日本付近の緯度で現すと、北海道の更に北、サハリン(樺太)中央部になる。つまり夏でも水温は16℃程度と非常に冷たい。
  • 潮汐と潮流:ドーバー海峡の最大水深部は約50mと浅く、ここを大潮時では干満差が7m、小潮時でも3mの高低差という大きな潮汐が生まれている。つまり、潮流が速い。
  • 泳ぎ方1.:ドーバー海峡を泳いで渡るには、当然小潮時を狙うことになるが、それでもこの低水温と速い潮流に翻弄されながら泳がなければならない。当然最短距離の34kmを泳げるわけはなく、6時間毎に転流する潮流で、蛇行しながら泳ぐ形になる(サンプル参照)。
  • 泳ぎ方2.:1-wayとは片道、2-wayとは往復、3-wayとは1往復半、4-wayとは2往復を意味する。

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サンプル
左上がイギリス、右下がフランスである。航跡は大きく蛇行しているが、サインカーブの頂点から、連続する次のサインカーブの頂点までがほぼ6時間である。このように潮流の影響で蛇行する。

2006年 「月に向かって泳げ!」(1/5)

~サポーター(トラ)から見たドーバー~

1.プロローグ
 今年の日本人スイマーによるドーバー海峡単独横断泳の記録を上げてみよう。
◎ドーバー海峡(1-way solo)
7月18日(火) 藤田 美幸(40歳) (英 ⇒ 仏)
記録 13時間35分(自己新記録)
8月6日(日) 眞壁 功 (62歳) (英 ⇒ 仏)
記録 15時間50分(日本人最高齢記録)
 藤田さんは今年で合計3回泳いだことで日本記録となり、「日本チャネル・クィーン」と呼ばれた。また眞壁さんは日本人では17番目、13人目のチャネル・スイマーになった。そして日本人完泳者の最高齢を更新したことになる。このように今年は日本記録のラッシュだった。このような新記録を目の当たりにしサポート出来たことは私の光栄であり、喜びでもある。これで1-way、2-way、ソロ、リレー含めて13回のサポートになり、9回の成功、10回の横断になる。成功率は70%くらいだろうか。いずれにせよこのような素晴らしいチャンスを与えてくださったお二人には感謝している。
 サポートを何度やっても思うことだが、夢を追い駆けている人の表情は輝き、豊かな人生を送られている。この中でも今年は特に印象深く、忘れられない思い出がたくさんある。そんな今年の印象を、過去の思い出を含みながら書いてみる。

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日本人チャネル・スイマーの記録(ソロ)

  1.  1982 大貫 映子  09h32m
  2.  1983 大貫 映子  11h15m
  3.  1986 小川 敏雄  10h22m
  4.  1990 小林 芳枝  19h47m
  5.  1992 川上 日出夫 12h58m
  6.  1993 小川 敏雄  13h34m
  7.  1995 根岸 達也  11h12m
  8.  1996 木村 善仁  20h23m
  9.  1997 久保 隆裕  09h53m
  10.  1997 塚田 吉彦  13h11m
  11.  2000 五十嵐 憲  16h42m
  12.  2002 小田切 杏子 14h57m
  13.  2003 西堀 千賀  12h24m
  14.  2005 藤田 美幸  17h03m
  15.  2005 藤田 美幸  13h41m
  16.   2006  藤田 美幸    13h35m
  17.   2006  眞壁 功   15h50m

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(7/7)

7.感謝
 今回の単独横断泳成功はドーバーの神様が私の願いをお聞き届け下さり、苦しい時、ピンチの時に助けて泳がせて下さったと思っています。ドーバーの神様に「感謝、感謝、感謝!」です。
 老い先短い私にこんな素晴らしい感動、最高の思い出を作って下さった石井先生に「感謝、感謝、感謝!」です。
 暑い中、寒い中、雨の中、私の遠泳練習のサポートしてくれた我が友、鈴木 正子さん、石川 弘樹さんに「感謝、感謝、感謝!」です。
 長時間の海練習では欠かせない「支援船」の船長、米田さん、畑中さんに「感謝、感謝、感謝!」です。
 家内と一緒になり、私を応援してくれた延 とも子さん、プレゼントを作ってくれてありがとう。「感謝、感謝、感謝!」です。
 私を信じ、始めから一緒になってドーバー海峡単独横断に挑んでくれた私の家族、祐子、俊介、麻純に「感謝、感謝、感謝!」です。
 そして私のドーバー海峡単独横断泳の勇気をたたえて、応援してくれた沢山の仲間に「感謝、感謝、感謝!」です。
 今、私は家内がドーバー海峡単独横断泳の成功を喜んでくれる姿を見るのが、一番嬉しい。
 帰国が一日早かったので、8月10日のヒースロー空港での爆発テロ事件に会わずに帰国出来たのは、私の「幸運の人」から「強運の人」に変わっていたからかも知れない。早速、ドーバーのビーチで拾ってきた「幸運の石」をペンダントにして、肌身離さず身に付けた事は言うまでもない。

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ドーバー泳ボランティアの元祖フレッド・ハモンド

「ドーバーの主」とも呼ばれ、そこから「湘南の主」が誕生する。

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(6/7)

6.やりましたよ~!
 シー・ファーラーから下ろされたトニーのゴムボートに先導され、無事フランスに午後11時34分ゴール出来、フランスの地に自分の足で立ち上がり、フランスの砂を持ち帰る事が出来て本当に良かった。トニーの待つボートまでたどり着き、ボートに引き上げてもらった。トニーが盛んに何かしゃべっているが、私には全く判らない。でも「やったぁ~、やったぁ~、ありがとう!」と彼の手を握り締めた。石井先生の待つシー・ファーラーに戻って、「やったぁ~、やったぁ~!」と両手を挙げ先生と抱擁した。パイロットのクリスも、オブザーバーのサイモンも、「おめでとう!」と握手を求めてきた。
 防寒着を身にまとい、キャビンの長椅子に横になっていると先生が携帯電話を持ってきて、「眞壁さん、家に繋がっていますよ。」と渡してくれた。先生には予めお願いしていた。「成功する、しないにかかわらず、一番先に家内に結果を連絡したいので、他の方には一切連絡しないで下さい。」と。
私「もしもし私です。やったよ、泳ぎきったよ。」
家内「ほんと、良かったねぇ、よく頑張ったね。」
 家内の声が聞こえてきた途端、急に涙が溢れ出た。
私「とても苦しかった時、『祐子、助けてくれ!』、『泳がせてくれ!』と、何度も、何度も、心の中で叫んでいたんだよ。」
家内「そう、私も、祈っていましたよ。」
と電話の向こうで泣いているのが分かった。
家内「目はどう?」
私「そういえば、ゴーグルを着けてから一回も外さなかった。今まで全く気がつかなかったが、目は大丈夫。腫れてはいない。」
 不思議だ。あれだけゴーグルに悩まされていたのに、本番では一回も外さず16時間あまり装着したまま泳ぎ続けていた。これもドーバーの神様のなせる業なのだろうか?
 家内は「目のことが一番心配だった。」と言っていた。今までの練習ではうっ血して、腫上がり、目が塞がってしまう事が多く、こうなると多分泳げなくなるのではないかと思っていた。
家内「誰に連絡する?」
私「子供達に知られてくれ、あとは義姉たちに。」
家内「それだけで良いの?」
私「いいよ。」
 家内が「石井先生と話がしたい。」と言うので先生と電話を変わった。
 泳ぎきれたという満足感で身体中が溢れ、ゴールした瞬間を思い出す度に涙が溢れて止まらない。今までの人生の中でこんな感動に出会った事がない。思い出す度に涙が溢れて止まらない。人に話をする事も出来ない。場面、場面を思い出すと涙が溢れてくる。ドーバー海峡単独横断成功は、こんなに素晴らしい感動を私に与えてくれた。

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海図(航跡)

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号泣して家に電話する

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お世話になったメゾン・デュー・ゲスト・ハウスの皆さんと

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(5/7)

5.ドーバーの神は微笑んでくれた
 8月6日(日)午前4時起床。日本から持ってきた餅をインスタント味噌汁と一緒に食べて腹ごしらえをした。餅は腹持ちが良いので、日本で長時間練習の際はいつも食べていた。多分、明日まで固形物は口には出来ないはず。宿の窓から外を見ると、薄曇の空。しかも風は全く無いので嬉しかった。待ち合わせの時計台に予定通り到着。だが、まだパイロット、クルー、オブザーバーは顔を見せていない。ドーバーのハーバー内は風・波が全くない。ラッキーだ。
 ほどなく全員が出揃い、出港の準備が整い、いざ出発。気持ちは穏やかで気負いはない。船はハーバーを出て右に回り、スタート地点のシェイクスピア・ビーチを目指す。波穏やか、風も無く、薄曇り、最高のコンディションではないか!
 擦れそうな身体の部分にラノリンをたっぷりと塗りこんで、船から離れ、ビーチに向かって泳ぎ出した。ビーチには東洋系の顔立ちをした親子連れが散歩をしていが、立ち止まり、私を見ていた。見物人が二人出来た。ビーチに上がり、船の合図を待つ。フォーンの音が聞こえてきた。両手を挙げ「絶対、フランスまで泳いで行くぞ~~!」と雄叫びを上げて、ゆっくりと水に浸かり船に向かって泳ぎ出した。風なし、波なし、水温適温(19℃)。これ以上の条件は望めないくらい最高のコンディションの中、午前7時44分、ドーバー海峡単独横断泳のスタートは切って落とされた。やはり「神様は私に微笑んでくれたに違いない」とドーバーに住む神に感謝した。泳ぎ出してまもなくドーバーの防波堤が左側に見えてきた。ピッチを意識してゆっくり、ゆっくり泳ぐ。しばらくするとイギリスのドーバーとフランスのカレーを行き来するカーフェリーの大きな船体が何回も見えるようになった。フェリーの航路を横切っているようだ。
 遠くにかなり大きな貨物船らしき姿が見える。右から左に動いているようなので、まだハーフポイントまでは時間が掛かりそうだ。それから何回かの補給を受けた時、先生に「ハーフポイントはまだですか?」と尋ねたら、「通過しましたよ。」とのこと。「どのくらいの時間ですか?」と再び尋ねると、「6時間40分です。」との返事。エッ、凄く速いな、私の予定では8時間ぐらいだったから、とても順調に来ている。
 でもこの後が試練の泳ぎとなった。潮止まりのゴミの海を通過した後、急に四方八方から大波が押し寄せてきた。風も無いのにどうした事か?船の引き波も加わっているようだ。(石井先生曰く、「これがドーバーの潮波」らしい。)まるで川の激流のような不規則な波が私を襲う。予てから先生に言われていた。「眞壁さんの海練習の時はいつも波、風穏やかで、ドーバーの海とは程遠い。もっと波の高い海での練習が必要です。」と。それまでは比較的ゆったりしたピッチで泳いでいたが、この大波を乗り切るには波に負けないストロークで力強く乗り切るしかないと思った。昨年チャレンジし、残念ながら途中リタイヤした内藤さんが、「大波で力を使い果たした。」と語っていた言葉も思い出していた。
 不規則な波が襲うので呼吸もままならない泳ぎが続く。「神様、泳がせてくれ。祐子、泳がせてくれ!」と心の中で何回も念じながら大波に挑み、木の葉のようにもまれながらも少しずつ、少しずつ前進をしていたように思う。そしていつの間にかあの大波が嘘のように消え、三角波のピチャピチャ波に変わっていった。
 何とか乗り切れた。ドーバーの神様はここでも私の願いをお聞き下さった。
 次なる試練は、フランスの陸地が見えてからだ。既に右腕は力が入らなくなっていた。左腕で水をプッシュするとプランクトンが「サァ~、サァ~」と糸のように流れて行くのだが、右腕でプッシュするとプランクトンは「サ・サ・サ・」と点で見えていた。右腕にいくら力を入れて泳いでもプランクトンは「サ・サ・サ・」なのである。でも腕はさほど痛みがないのが幸いだ。
 岸の景色がどんどん変わる。左方向に流されている。それもかなりの速さだ。ここで思い出されたのが半月前に完泳したインドの女性の話。残り1マイル(約1.8km)を泳ぎきるのに3時間掛かったと言う。もし自分がそのような事態に陥ったら耐えられるだろうか?陸地が見えているとなおさら精神的に厳しいと思う。既にドーバー単独泳に3回も成功している藤田 美幸さんの言葉を思い出す。「眞壁さん、前を見たらあかんよ。船だけを見て泳がなきゃ駄目だよ。見えると自分で距離、時間を判断してしまう。でも絶対にそのようには泳げない。」。わかってはいるが、景色が見えてしまう。先生に「横に流されていますよねぇ?」と聞くと、「流されています。」と答えが返ってきた。「やっぱりなぁ~。」と、補給の度に変わる景色をついつい見てしまう。
 そしてドーバーの神様は三度(みたび)微笑んだ。周りの景色が見えないようにと、夜の帳(とばり)を降ろして下さったのだ。石井先生の合図で止まると「これからケミカルライトを装着します。船の側へ来て下さい。」との指示が飛ぶ。暗くなってきたという事は、もう12時間以上泳いでいることになる。「よし、20時間泳いでやるぞ!」とここで腹をくくった。周囲が見えなくなれば、船だけを見て泳げば良いので精神的には楽になった。
 先生は盛んにピッチを落とせと指示を出すが、これ以上ピッチを落とすと身体が沈んで呼吸が苦しくなるのでそのままのピッチで泳ぎ通した。このとき計測したデータによると1分に60回以上のピッチ数で泳いでいた。練習ではこのピッチでは必ずリタイヤしていた数値である。また後から聞いた石井先生の話によると、スイマーの私と先生が会話した時、オブザーバーが必ず「何を話した?」と聞いて来るそうである。飲み物もしかり、「何を飲ませた?」等々。正直に「呼吸が苦しく、身体が沈んでしまう。」などと言ったら船に上げられてしまう可能性があるので、「ピッチを落とせと指示したが、寒いのでピッチを上げて泳いでいる。」と説明したそうである。
 突然、側で大きな音がしてなにやら歓声が聞こえてきた。ビックリして泳ぎが止まる。泳いでいた私の側にボートがいた。昼間、私達を追い抜いて行ったアメリカ、テキサスのリレーチームが泳ぎ終わって私のために応援に駆けつけてくれたそうである。音楽がガンガン鳴っている。「オレェ~、オレェ、オレェ、オレェ~♪」と威勢の良い音楽が流れ、とても楽しい気分になった。アメリカ人は楽しみ方を知っているなぁ、私も音楽でも聴きながら泳いだら楽しかったなと思った。
 遥か彼方、左前方に町の明かりがゆらゆら見える。突然、先生のフォーンが聞こえてきた。

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南アフリカの女性スイマーと

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ゴック~~ン!!

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キンちゃんとも仲良しなウクライナから来たイゴ・ネンコ(左:スイマー)とイゴの兄(右:コーチ)

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(4/7)

4.いざ、ドーバーへ
 7月半ばに急遽、ドーバーへ行っている石井先生からメールが来て「藤田さんが3回目のドーバー単独泳に成功!」との朗報を受け取った。聞けば水温は16℃前後と、非常に厳しい環境の中での泳ぎだったとか。この水温では私では絶対無理だと思った。あと2週間あまりだが、私の泳ぐ時には少しでも水温が上がってくれることを願って止まない。
 イギリス行きの飛行機は7月28日(金)成田発10:50のブリティッシュ・エア・ウェイズ。旅立ちにあたり、家内は先方でお世話になる方へと、友人にお願いして手作りのカードを作ってくれていた。本当にありがたいと思っている。石井先生は7月26日に藤田さんと帰国。28日には私と再びドーバーへ行くという超過密スケジュール。そしていざ、ドーバーへと旅立った。
 7月28日の午後、ヒースロー空港に到着。日本を発ったのは午前11時頃、時差はあるが時間が後戻りしている。「タイムスリップしているぞ。このまま飛び続ければ昔に戻れるかなぁ。」などおかしなこと考えていた。
 電車を乗り継ぎ夕方宿に着いた。ドーバーは大分涼しい気候だ。夕方になると20℃を下回る。2002年のリレーの際お世話になった宿だが、その後経営者が変わっていた。先生は藤田さんとつい先日まで泊まっていたので、まるで自分の家に帰ってきたような気分ではなかろうか。
 翌日から早速ドーバーのビーチで練習を開始。ビーチでの練習は流石「世界のドーバー」。世界各国から海峡横断泳を目指してスイマーが集まっている。「今年は練習だけ、来年チャレンジする。」なんていうスイマーもいた。しかも1ヶ月以上滞在しているスイマーもいて、何と恵まれた環境なんだろうと思った。
 特に土・日のビーチは大賑わい。CS&PFに所属するボランティアの方々がスイミングキャップを貸し出したりワセリンを塗ってくれたりしている。また長時間泳ぐスイマーには栄養補給で、1時間毎にマキシムとブラックカレント(Black current:カシス/黒スグリ:「フルーツ」)のジュースをミックスしたもののサービスまでしてくれていた。しかもドーバー海峡横断泳に挑戦するスイマー以外の一般スイマーもかなり泳いでいる。
 4年振りに泳ぐドーバーの海は最初とても冷たく感じたが、水温は18~19℃もあって、1時間ほど泳ぐと水温にも慣れ、とても気持ち良く泳げた。本番でもこの水温なら何とか泳げそうだなと感じた。そして体調と相談しながら毎日2~4時間の練習をして本番を待っていた。
 ただ到着した日もそうだったが風が強い。この風は1週間吹きまくり、8月3日まで1艇の船も出られなかった。今回の潮周りでは7月30日から8月7日までの間になっているが、このままでは泳がずに帰るなんてことにもなりかねない。まぁ自然相手のことだから、止むを得ないと言えば止むを得ない事だが少々心配になってきた。
 8月2日、パイロットのオズモンド氏が宿に尋ねて来て、「この風は今週末には治まる。従って4日から6日の間に泳ぐことになるだろう。」とのことだった。泳ぐ順番が3番目の私は順当に行けば6日という事になる。
 ドーバー海峡を40回以上も完泳し(世界記録)、「Queen of the Channel(ドーバー泳の女王)」としてギネスブックにも掲載され、世界初のドーバー3way完泳者としてエリザベス女王から「MBE(Member of British Empire)」、つまり「正式な大英帝国の会員(日本で言うと「国民栄誉賞」?)」の称号を貰っているAlison Streeter MBE(アリソン・ストリーター・MBE)お勧めのマッサージを受けに行った。
 日本のマッサージと違いオイルを塗りながら身体を擦るのだが、これがとても気持ち良く、始めると直ぐ「いびきをかいて寝ていた。」と石井先生に言われた。ドーバーにいる間、4回ほどこのマッサージを受けた。
 ドーバー海峡横断泳に成功した翌日、マッサージに行くとそのクリニックの前で先にマッサージを受けていたこのドーバーの女王、アリソンと偶然お会い出来、私の完泳をとても喜んでくれた。そして私は着ていたシャツに彼女のサインを書いてもらった。これは私の大切な、大切な宝物になった。
 食事では朝食付きの宿だが、毎日の昼食と夕食は自分達で調達しなければならない。先生も私も好き嫌いが殆ど無いので何を食べても大丈夫。そこで費用を少しでも安く上げるため、外食の半値で食べられる自炊がベストと判断。当初は外食を予定していたが、半自炊の食事にした。宿の近くのスーパーで食材を買い求め、部屋にある小さな電気ポットひとつで煮たり温めたりしながら食事をしていた。そんな食事の中で、私のお気に入りは「チキンの丸ごと焼き」。日本円なら400円弱で、4回ほど食させていただいた。結局外食したのは最後の8日の夕食だけだった。それもサンドイッチ。昼食でチキンを食べてお腹一杯だったので軽めに済ませてしまった。
 5日、土曜の昼頃。ビーチで「幸運の石(穴が貫通している石)」を探していると、背の高い男性とその息子と思われる二人が私に何やら話しかけてきた。直ぐに石井先生のところへ連れて行くと、私のチャーターした支援船「シー・ファーラー」のクルーとオブザーバーだった。「明日泳ぐことになったので、ハーバーの時計台のところに朝7時までに来るように。」とのことだった。昨日も風が強かったので船が出たかどうか心配していたのだが、シー・ファーラーは出て行ったようだ。そして、いよいよその時がきた。
 早速、家内に電話をして「いよいよ明日泳ぐことが決まった。何とか成功出来るよう祈ってくれ。」と言うと、家内は「苦しくなったら私のことを、家族のことを考えて泳いでね。」と励ましてくれた。

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ビーチ練習

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ビーチ練習

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ビーチ練習

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(3/7)

3.練習は厳しく
 月1回、海での長時間泳練習を計画。それでも来年の本番までには11回しか練習が出来ない。練習計画は別紙「練習計画書」、及び「練習まとめ表」によるが、第1回目は私の永年の夢であった「片瀬江ノ島~茅ヶ崎沖の烏帽子岩往復泳」と決定。サポートは先生の他に我が友、石川 弘樹さん、鈴木 正子さんにお願いした。支援船は私の所有する「アスリート号」。
 ドーバースタイルの遠泳練習とは補給時間、補給物は人によって違うが、補給を受ける時も船につかまらず、しかも素早く飲む。出来れば10秒以内。ドーバー海峡は潮の流れが非常に速く(今回の私の横断泳では秒速1m以上の潮の流れがあった)、泳がず休んでいると、どんどん流されるので、出来るだけ止まっている時間は短くする。また、休んでしまうと泳ぎのリズムが狂い、元のリズムに戻るまでに時間が掛かる。排尿も泳ぎながら出来るように練習。排便につながる固形物は取らないようにした。
 補給物は先生お勧めのイギリス製「マキシム」。炭水化物主体のパウダー状のもので、それを果糖または蜂蜜で味付けし、「プラティパス」という水筒に1回分約300ccをお湯で溶かし、冷めないようホカロンを貼り付けて暖め、更に家内が作ってくれた特性の保温バック入れて加温した。温度は60℃近くまで上がり、飲むときは熱いくらいだが、海水に漬けると直ぐ冷める。
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 長時間泳は仮に海水温が25℃以上と高くとも、36℃程度の体温より低いため泳いでいると身体は冷えてくる。やはり補給は温かい飲み物の方が“ホッ”とする。
 補給は40分毎に1回。真冬の練習では20分毎に1回。それでも身体はどんどん冷えて筋肉が動かなくなってくる。
 寒くなってきた11月以降はサポート船がアスリート号では厳しくなってきたので、江ノ島片瀬漁業協同組合に行き、組合長さんに直談判。「来年ドーバー海峡を泳ぐため江の島~逗子海岸を遠泳の練習場所にしているが、その際の支援船を探して頂けないか。」とお願いした。「但し、ドーバーへ行くためお金が掛かるので、船代はなるべく安くお願いします」と頼み込んだ。幸いなことに、組合長さんの所有する船が空いているとのこと。とんとん拍子に話が纏まって「湘南丸(5トン)」いう大きな船になった。
 新しく支援船を得て練習を始めたが片瀬西浜~逗子海岸2-way(往復泳)で、いつも復路の途中、稲村ガ崎沖、若しくは七里ガ浜沖でギブアップ。時間にして6時間を超えた辺り。何度泳いでもその辺りに来るとギブアップしてしまう。
 やはり自分にはドーバーは無理なのか。でもハーフポイントぐらいまでは泳ぎたい。泳げなくなる原因は低水温による体力の消耗と背筋の疲労。それこそ「このまま海の底に沈んで行ってしまうのではないか。」という幻想にとらわれた。そして泳げなくなる一番の要因は、未だ気持ちが本当に「やるぞ、絶対に泳ぎきるぞ!」となっていなかったのかもしれない。「無理して体調を崩さないか。」、「故障をしないか。」、等々、余計な事まで心配していたように思う。
 それとスイミングゴーグルを長時間装着していると、ゴーグル内の目の周りのうっ血がひどく、目が塞がって見えなくなり、方向感覚、三半規管も狂って泳げなくなる。という大きな問題も発生した。色々とゴーグルを試して、最終的に落ち着いたのは「デカゴーグル」になった。耳鼻科の医師に聞いたところ、三半規管を冷やすと方向感覚が狂ってくるとのこと。石井先生もお勧めだったが、必ず耳栓をやるようにした。
 ただ私は呼吸が左側一方向だけなので、いくら耳栓をしていても右側頭部が冷やされて少しずつ方向感覚が狂ってくる。この冬は異常に寒く、例年12月でも江の島沖の海水温は18℃ぐらいであるのに、今年は16℃以下になっていた。特に1月から4月までは海水温が14℃以下で、組合所有の江の島沖の定置網に「魚が全然入らない。」と組合長さんがこぼしていた。魚も動けない低水温だから、あまり無理をしない方が良いのではないか、「体を壊してしまうよ。」と忠告も受けた。
 気持ちは焦るが、あまりの低水温で長時間泳の練習は無理なので休む事にした。しかし低水温に身体を慣れさせるため、一人で週1~2回、1時間程度の海練習は欠かさずにやっていた。更にプールでは八戸 博子さんのトレーニング、合宿等に参加し、多い時で1日に7000~8000mの泳ぎ込み、6時間泳なども消化していった。
 4月に入り気温も日中は15℃を越すようになってきたので、今までの練習の遅れを挽回すべく、月2回の遠泳練習計画に変更した。先ずはドーバーを泳ぐための申請で必要な「16℃以下の水温で6時間以上泳いだ証明書」を作成するための練習を実施。
 いつもの片瀬西浜をスタート。逗子海岸を折り返し、再びスタート地点の片瀬西浜を目指す。水温13~15℃の中、かなり苦しいが「何とか6時間は泳ぎ通したい。」と願いつつ頑張って泳いでいたら、正子さんが「眞壁さぁ~ん、6時間経ちましたよ!」と声をかけてくれた。一杯一杯だった気持ちが急に萎えて、「ありがとう。もう上がる。」とまたもやギブアップ。でも何とか6時間は泳げた。なかなか予定のコースを完泳出来ず落ち込んでしまっていたが、それでも月2回の練習は予定通り実施した。
 4月下旬、組合長さんのところへ次回の船の予約に行ったと頃、船頭さんがとても心配していて「いつも同じ場所で止めてしまうが、万が一事故にでもなると困るなあ。」と言っていたそうである。石井先生に相談し、誓約書を作成。「自己責任で泳ぐものであり、組合及び船頭さんには一切迷惑をかけません。」との文言を入れて組合長さんに提出した。
 練習も佳境に入った5月からは夜間泳も視野に入れて計画を立てた。が、いつもの湘南丸の船頭さんは、「この船は夜間航行出来ないので他の船を当たってくれ。」と断られてしまった。再度組合長さんにお願いして別の船、「新将丸(4トン)」が引き継いでくれることになった。今までより若い船頭さんで、ドーバー海峡横断泳に少なからず興味をもっていてくれ、且つ、「そのような事に手助けが出来ると言うことは、自分としてもすごく嬉しい。」と言ってくれたのがとても心強かった。
 船が変わったせいでもないのだろうが、何度やってもギブアップしていたコースの2wayを、5月16日に泳ぎきってしまった。今までは何だったんだろう?と思いつつ、泳ぎきったことに気分を良くして3way、4wayと立て続けに成功した。特に7月4日の4wayは20時間と、自分でも信じられないくらいビックリの長時間を泳ぎきった。これでかなり自信がついた。しかも補給は液体のマキシムとグリコの「C.C.D」のみ。他に固形物は一切取らなかった。9リットル作った補給品は全て飲み尽くしてしまい、それでも泳ぐ前と後で体重は殆ど変わらなかったのにまたまたビックリした。
 4-wayが泳ぎ終わったのは夜中の1時頃だったが、息子がゴール地点の片瀬西浜の海岸で待っていてくれた。息子は1時間も前から海岸に来て、江の島沖を明かりのついた船がゆっくり進んでくるのを見守っていてくれたらしい。そして毎度の事だが、家では家内がお風呂に直ぐに入れるように準備して待っていてくれた。家族全員で私のことを応援してくれて、本当に私は幸せ者だと思った。
 このとき感じたのは、気力=(何かをやり抜こうとする意思をささえる精神の働き)、精神力=(心の持ち方、強さ)の強さは肉体をもコントロールしてしまうという事。4way目に入り右肩、腕、手首と右手が痛くて、殆ど役にたたなくなっていた。ただ腕を回しているだけで「水をかく」という事が出来ていない。でも泳ぎのバランスがあるので、痛さに堪えて何とか泳ぎきった。しかし泳ぎ終わった途端、右腕は痛くて肩より上に上がらない。よくこんな状態でも泳ぎ続けることが出来たと、自分でも不思議だった。ただ水温が高かったから泳げたんだと考えていたが、「20時間泳げた」と言う自信は色々な面で好効果をもたらしていた。
 「ドーバー海峡の水温は低いので、誰にでも泳げるという海ではないぞ!」
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ドーバーを力泳中

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(2/7)

2.なぜ、ドーバーなのか?
 2005年7月、仕事から戻り昼食を食べながらTVを見ていると、「徹子の部屋」にヨットで世界一周単独無帰港を成し遂げられた「斉藤 実さん」が出演されていて、厳しかった航海の話を生き生きと語られている姿に釘付けとなった。70歳を過ぎておられるのに、何と若々しいことか。つやつやとした肌に目が爛々と輝き、厳しい航海の話を楽しそうに話されている。
 目的を持ち、それを成し遂げるとこんなにも若々しく、輝き光るものなのかなあ~。その目的が困難であればあるほど、それを成し遂げた時の嬉しさは身体全体から滲み出てくるように思えた。自分も若くはない。何か目標を持って生きていけたらこの先、楽しい人生を過ごせるかもしれない。私にはこれしかない「ドーバー海峡単独横断泳」。でも私にとってはとてつもなく暴挙。そしてあまりにも「無謀な夢」と言うものだった。
 一緒に見ていた家内にドーバーの話をすると、「やってみたら。無理かもしれないが、チャレンジする事はとっても良い事だと思うよ。たとえ半分でも泳げたら良いんじゃない。」と私の心を見透かすように言った。
 2002年8月、思いがけず「チーム・奥澤」の1-wayリレー・メンバーとしてドーバー海峡横断泳に参加し12時間03分で成功することが出来た。その時以来「これがドーバー海峡か、いつか単独での横断泳にチャレンジしてみたい」と、とてつもない「夢」を見ていた。
 「よぉ~し、やってみよう。夢を実現してみよう。たとえ半分、ハーフポイントまででも良いからドーバー海峡を一人で泳いでみよう」と心に誓った。そしてドーバー海峡を泳ぐためのご指導をお願いするのはこの方しかいないと思っていた、トラジオンスイミングクラブの石井 晴幸先生だ。
 今回のドーバー行きで既に9回もドーバーへ行っており、ドーバーの海、ドーバー海峡を泳がせることに関して多分、日本で一番経験、知識が豊富なお方だと思っている。
 昨年の8月末、藤田 美幸さんの津軽海峡単独横断泳の帰りを待って、羽田空港に石井先生と藤田さんを迎えに行き、私のドーバー海峡単独横断泳のチャレンジについて、そしてそのご指導を石井先生にお願いしたい旨をお話した。しかし先生のお返事は「確約は出来ません」との事であった。でも来年の3月までは、時間の許す限りお手伝いはしましょうとの返事は頂いた。また「ドーバー海峡を泳ぐに当たってどの協会で泳ぎたいですか?」と妙な質問をされた。
 「2002年、リレーの時の協会はCSA(Channel Swimming Association)でしたが、最近新たにCS&PF(Channel Swimming & Piloting Federation)が出来、どちらでも良いですが、最近私はCS&PFです。藤田さんはCS&PFで泳いだ初の日本人です。」とのこと。ドーバー海峡を泳げれば私はどちらでも良いので「先生のやりやすい方でお願いします。」と即答した。早速、先生はCS&PFと連絡を取って下さり、「予約が取れました。」と9月上旬に連絡があった。
 予約内容は2006年7月30日から8月7日までの潮で、泳ぐ順番は3番目。伴走船は2002年の時のリレーと同じ「シー・ファーラー」。パイロットは「クリス・オズモンド氏」であること。更に先生と練習方法、その他について後日お会いして話し合った。
 「練習は出来るだけドーバースタイルで行い、実践的な練習をやっていきたい。そして最低でも10時間泳ぐらいは泳ぐこと。過去の単独泳成功者の記録から見ると完泳時間は10時間から20時間の間であり、16℃の水温で15時間前後は泳げるよう練習して下さい。」と指示された。海で私が一番長い時間泳いでいるのは2005年10月の奄美大島海峡横断泳で7時間前後だった。
 また一番の問題点である低水温対策としては、「出来るだけ体重を増やすこと。出来れば現在より10kgぐらいは増やした方が低水温には強くなる。」と言われた。これが私には結構大変で、燃費の悪い身体(基礎代謝が1,500~1,600kcal)、更にトレーニングを重ねると、食べても、食べてもカロリー消費が大きく太れない。
 そこで肥満防止対策の反対を行い、食べて、食べて、食べまくった。寝しなに食べ、間食をし、甘い物を食べ、とにかく寝ているか、泳いでいるか、食べているかの生活を送った。かなり胃腸、肝臓に負担を掛けたが、その効果が出て半年くらいで10kgの増量に成功。お陰でドーバーへ行く直前の人間ドックでは見事「メタボリック・シンドローム」と言うお墨付きを頂き、「再検査要す」の判定が下された。

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ドーバービーチでの練習

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天気が良いと、ハーバーの出入口の向こうにフランスが見える。

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ビーチ練習

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ドーバーの水温に慣れる

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栄養補給の練習

2006年8月6日 「神は微笑んでくれた」(ドーバー海峡単独横断泳成功)湘南の主(1/7)

2006年8月6日(日)
湘南の主
ドーバー海峡単独横断成功
   時間 15時間 50分
日本人で13人目のチャネル・スイマー誕生
日本人最年長 62歳
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Details of the Channel Swimming (England to France)
Date: August 6th, 2006
Start: Shakespeare Cliff (07:46)
Finish: Between Sangatte and Blériot-Plage (23:36)

Record: 15 hours 50 minutes
Swimmer: Isao Makabe
Date of birth: May 29th, 1944
Age: 62
Nationality: Japanese
Sex: Male
Membership card number: 2006/7104
Swim number: 2006/05S
Swim type: 1-way solo
Period: The number 3 position on the 30th July to 7th August tide

Pilot Boat: Seafarer
Pilot: Chris Osmond
Crew: Tony Mitchinson
Observer: Simon Mitchinson
Coach: Haruyuki Ishii
Weather: Clears and cloudy.
Wind: 1 - 2. Light air and light breeze (The Beaufort Wind Scale). The south and the south-southwest wind.
Temperature: 18 - 25℃
Water temperature: 18 - 19℃
Wave height: 0.5 - 1.5m
Tide: 02:52  2.1m   08:18  5.5m   15:25  2.0m   20:40  5.7m (Port of Dover)
The age of the moon: 12.3
Details: CS&PF

1.いきなりゴール
 暗闇の中、船を左に見ながら泳いでいた。左前方、はるか彼方に町の明かりが見えている。どこの町の明かりなのだろうか?しかし中々明かりには近づけなくて、もう何時間泳いでいるのだろう。
 突然、船から石井先生のフォーンが聞こえた。補給時間かな?と思いつつ泳ぎを止めて船を見る。
先生「これからゴムボートを下ろします。この先はゴムボートについて泳いで行って下さい」。
私「エエッ、陸が近いんですか?」
 周囲を見渡すが暗くてよく判らない。
私「どうすればいいんですか?」
先生「ゴムボートが近づくまで待っていて下さい。」
 そして先生が何かを投げた。カプセルだった。泳ぐ前に先生に預けておいたカプセルを渡してくれたのだ。このカプセルをパンツの後ろにはさみ待機する。そしてボートの先導で再び泳ぎ出す。ボートに乗っているのはクルーのトニーだった。何やら胸の辺りからピカピカ光るものが見える。
 前方上空を見ると、半月より少し膨らんだ月がよく見える。しかし陸地は残念ながらよく判らない。先生から「月に向かって泳いで下さい。」との指示が飛ぶ。
 「月か、良い目標だ」ボートの横を月に向かって泳ぐ。月光が道標をつけていてくれる。すると平らだった海面が盛り上がってきた。波のようだ岸は近い。ゴムボートも止まる。するとまた海面が盛り上がり前方で波が砕けた。暗闇で目が慣れないためか周囲が良く見えない。砕ける波にもまれながら進んでいくうちに突然、海の中で手の指先が砂に触れた。
 「あぁ、砂だ」立ち上がると膝上くらいの深さだった。波をかき分け、かき分け、海から上がった。辺りは明かりひとつ無い真っ暗やみ。月に映し出された海岸は白っぽい砂だとわかる程度の明るさ。前方は防砂林か何かのようで木のシルエットが黒々と見えていた。
 「やったぁ~~~、やったぁ~~~、俺は泳ぎきったぞぉ~~~!」と大声で叫んだ。そして心の中で「やったぁ、やったぁ、やったぁ、祐子、泳ぎきったぞぉ~!」と何度も何度も繰り返し叫んだ。
 スイミングゴーグルのベルトに挟んでいたケミカルライトをはずし、沖で待機している船に向かって大きく手を振り合図を送った。
 船から「プウォ~~」というフォーンの音が聞こえた。判ってくれたのだ。
 パンツからカプセルを取り出し、少し奥に進んで乾いた砂をカプセル一杯に詰め込みトニーの待っているゴムボートのところまで泳ぎ出した。

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シェークスピアビーチをスタート

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バックに美しいシェークスピアクリフ(白い壁)が見える。

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バックはフランスとイギリスを結ぶフェリー

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力泳

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ドーバー海峡を縦断するタンカーも通る。

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更に力泳は続く

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アップ

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珍しくベタ凪のドーバー

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だがやはり荒れだした

(暗くなってからの撮影はありません)

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やったぞぉ~~~!!!

2005年8月30日 津軽海峡単独横断泳の報告(4/4)

4.過去・現在・未来
 今年は津軽海峡1-Way(5月)、ドーバー1-Way(7月)、ドーバー2-Way(8月)と、三段飛びの要領で泳ごうと考えていた。結果は5月の津軽が悪天候のため泳げず。ドーバー1-Wayは17時間03分で完泳。ドーバー2-Wayは往路が13時間41分で行けたものの、復路は疲労、寒冷、眠気、大腿部痛のため、17時間33分で断念した。数日後ドーバーを渡るフェリーに乗って自分が泳いだ海峡を眺めていた時、知らず知らずに涙が溢れ出し止まらなくなった。この止めど無く溢れる涙は念願だったドーバー2-Wayの失敗に対する自分への悔しさ、悲しさ、未熟さだった。「持病を持つ私の足では、二度とドーバーを泳ぐことは出来ないのか」、「私は遠泳に向いていないのか」など、いろいろなことを考えると自信喪失になり、ただただとても悲しく、ドーバーの波を見ても「また泳ぎたい」とは思えなかった。敗北した自分しかそこにはいなかったのである。
 ドーバーで私は多くのことを学んだ。しかしそれはいとも簡単にドーバーによって切り取られようとしていた。きっと津軽を泳がなければ、ずっとその尾を引いたまま「泳ぎたい」と思う気持ちの糸が切れていたかもしれない。ドーバーでの苦い経験が時間と共に和らぐ前に、反省出来る点を自分自身の身体に叩き込んでおきたかった。きっと津軽の神様は私が遠泳をやめる決意を許さなかったのだろう。おそらくドーバーの神様と結託をして、再び2-Wayをチャレンジさせるため、こうなる結果を始めから予測して「更に修行を重ねなさい」と、糸を切らさないために5月の津軽を今回まで順延して下さったのだ。日程さえも思い起こせばうまく出来ている。5月は予備日を含め3日間取っていた。それが全て悪天候のため泳げずにお終。今回は4日間に増やして望んだ。初日、台風の余波。二日目、強風。三日目、雷雨。そしてようやく最終日に絶好の日和で泳げたのである。この神様の見えない演出の糸に、私はマリオネットのように踊らされていたような気がしている。
 津軽の海は優しく豪快に私を迎えて入れてくれた。思いきり泳ぎ、思いきり波と戯れ、いろいろな顔を見せくれ、楽しくて楽しくて仕方がなかった。ドーバーでの憂さを、津軽で爆発させたのである。もう一度ドーバーで学んだ全てを発揮し、『自分を試してみたかった』の気持ちは「いろいろな海を泳いで自分を磨きたい」、「もっともっと泳ぎの教えや海の自然を身につけたい」と言う前向きな「オーシャン・スイマーとしての自信」へと変化させてくれていったのであった。とにかく津軽で思いきり泳げたことが、それまでのドーバーの船で流した涙、混沌とした自分の暗い気持ちに句読点が打て、気分が一気に晴らされて新たな自分の発見、新しい自分への移行へとつながって行ったのだ。これほど「津軽に来て良かった」と思ったことはなかった。
 海は何処もいろいろな顔をしている。同じ海でも表情はいろいろ変化する。たまたまドーバーを泳ぎ、たまたま津軽で泳ぎ、たまたま他の海を泳ぐ。何処も「一回泳いだからもう良い」なんてことはない。海は喜怒哀楽なのか、いつも別な表情を見せてくれる。そう、遠泳は何が起こるかわからない。そんな海の魅力に、私は"とりこ"になっている。
 善春さんが言っていた。「一致団結だ!」と。遠泳は一人では出来ない。多くの人の手を借りて始めて成される業なのだ。しかも私には今回のようにそれぞれ海の専門家に囲まれて始めて泳ぐことが出来ている。何と幸せなことか。このような皆さんに私の一番のお礼だと思うことは、今後も元気で泳ぎ続けることだ。
 海を泳ぐ私はずーっと続くだろう。時折、海が、波が、私の魅力で連れ去ることもあるが、多くのスイマーに海の魅力をお届けしたいし、お届けできたのなら幸いだ。何処かでお会いしたら気軽に声を掛けてほしいし、一緒に泳ぎたい。それでは今度、海でお会いしましょう!!
 最後に今回、津軽を泳ぐために協力して下さった全ての方々、素晴らしい自然、最後までこの報告書をお読みいただいた方々に感謝します。

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チョッピーな波が、、、

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夕方、汐首岬沖合を通過

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明るい内に着かなきゃ!!

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津軽海峡汐首の夕陽とキンちゃんの力泳

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最後までチョッピー!!

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紅の海とキンちゃんの泳ぎ

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ようやく戸井浜町のビーチ前に来た!

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成功できたよ!!

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眼がお岩さんみたいになっちゃったけど

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お世話になった皆さんと

♪「桃源郷」♪
1.
空と海の色が 赤紅に染まり 溶けだした頃

泳ぐ旅人は 桃源郷を求めて 旅に出る

水平線の向こうの さらに向こうにあると言う

*サビ
羅針盤が 進む方位を 指している

人との出会い 言葉との出会いを求め

泳ぐ旅人は 桃源郷を目指す

2.
満天の星空は 旅人の居場所を 知らせてくれる

冷水に震え 居眠りをしたり 時化(しけ)に会う

試練を乗り越えれば 見えてくるのさ桃源郷

*サビ

3.
泳ぐ引き波が どこまでも続く 旅人の足跡

前を見るなよ 喋るなよ 尋ねるな

振り向けば今来た航跡(みち)が 遥か彼方から続いてる

*サビ

そう 今 旅人の居るところが桃源郷 桃源郷

2005年8月30日 津軽海峡単独横断泳の報告(3/4)

3.夢のような津軽の泳ぎ
 水温は24℃だが、相変わらず水が重たい。進んでいるのは沖合で待つ第31栄幸丸までたどり着いたからだが、「いつものマイペースで泳いで行こう」と心に決めた。佐井の景色、船上スタッフの顔を見ながら泳ぐ。大間付近の強風は頭にインプットされている。地形を見ながら肌で波を感じ、「来た、来た、来た、来た、これだぁ~!」と息を吸いながら、「次はこの波だぁ~!」と楽しんで泳ぐ。「嵐を呼ぶ女(私)」の波はハンパじゃないのだ。
 それにしても私はつくづく「贅沢なスイマーだ」と感じている。スタッフに見守られ、多くの応援者に支えられながら、今、津軽海峡を泳いでいるのだ。どうやら風も潮も味方してくれているようで、佐井の景色は遠のき、北へ北へと私を運ぶ潮に乗れたらしい。時折、石井コーチの姿が見えなくなるが、これは私のための栄養補給でお湯を沸かすため、船室に入ってしまうからだ。小さなガスコンロにやかんを乗せてお湯を沸かすが、揺れる船内ではコンロから落ちないよう、お湯が沸くまでやかんを持ったままでいなければならない。後から聞いた石井コーチの話では、「オレがお湯を沸かそうとすると波が荒くなり大きく揺れる。まったく"嵐を呼ぶ女"なんだから!」だそうだ。いずれにせよこの贅沢なスイマーはこういった暖かい人の心の上で泳がせてもらっている。本当に多謝、多謝なのだ。
 栄養補給は40分に1度、石井コーチから投げ渡される。これはドーバー泳のルール同様にやっているため、船上から投げられた栄養補給品を水中で摂ることになる。スイマーは泳中、船に上がることも触れることも許されていないのだ。ちなみに脂類を身体に塗ることは許されているものの、ウェットスーツなど標準的な水着以外の着用は禁止だ。そしてスタートは身体の全てが水から出た陸上からで、ゴールは対岸の陸上に身体の全てが水から上がった状態になる。この間、人の手を借りてもいけない。
 佐井からほとんど西に進路を取り、ある程度来たところで北に向かう。そしてそろそろ本命の主流、津軽海峡のベルトコンベアに乗るのだ。そう思った途端、急に非情な冷水が・・・。「冷たい!」と叫ぶと同時に、今までにないメチャクチャな波が・・・。「何だろう?」と右を見ると、「これぐらいだ!」と安宅さんが両手を広げて教えてくれる。「ああこれぐらいの幅は、こういう状態が続くのか?」と下を見ると渦が! どうやらスカーリングをすると出来る渦(「カルマン渦」と呼ぶらしい)の、そのまた巨大な親玉渦の中で泳いでいるようだ。『ここは鳴門海峡か?』と思ったほどだ。しかし渦を見た次の瞬間、波が穏やかになり水温も上がってきた。船上からは安宅さんに「〇(丸)」のサインをもらった。後から聞いた話では第31栄幸丸も回ったらしい。始めて泳ぐ渦の中、おもしろい!!
 波は穏やかだったり、後ろから押してきたりの繰り返し。ドーバーで習ったように「前を見ない」、「止まらない」、「喋らない」、「クラゲを怖がらない」を私は守った。それでも船上スタッフとジェスチャーなどによる会話は楽しめる。石井コーチがジェスチャーで私を笑わせると、他のスタッフもおもしろがって私を笑わせてくれた。こういうコミュニケーションが私は大好きだ。そんな余裕の泳ぎでも、海峡の本命ベルトコンベアは平均時速8km/hの流泳で私を移動させた。ちなみに100mを50秒で泳ぐオリンピック級のスプリンターは、平均時速7.2km/hである。もちろんベルトコンベアに乗っているから出来る業ではあるが、世界一のスプリンターより私は速く泳いでいると思うと愉快になる。「ワッハッハッハ・・・、世界のスプリントスイマーよ、束になってかかって来なさい!」なんてネ。
 最初、『ゴーグルの中に海水がチョロチョロ入ったかな?』と思ったくらいであまり気にも止めなかったが、だんだんと眼が痛くなり、海水を出しても何故かまた入ってくる。痛くて左眼が開けられなくなったが、泳ぎの方は後ろから押し寄せる波に「私を函館まで連れてってー!」と叫び、とても楽しんでいた。ところがこれが楽しみ過ぎた。大間と汐首を結ぶ線(最狭部)から太平洋側に出てはいけないものの、調子に乗ってベルトコンベアに乗り過ぎたのか、汐首まであと2マイル地点で線の太平洋側まで押し出されてしまったのだ。そしてそのまま流され北海道は遠のいて行った。
 ドーバー泳の前だったらここで音を上げていたかもしれない。しかし今の私は違う。ドーバーで習った「前を見ない」、「止まらない」、「喋らない」、「クラゲを怖がらない」が、いつか必ず北海道に着けると言う自信につながっていた。
 同時に地元の漁師、安宅さんは汐首の先でも岸に近ければ"反流"があることを知っていた。つまりベルトコンベアを通り越せば、むしろ北海道に向かう反時計回りの潮(向岸流)に、私を乗せようと考えていたのである。この頃から第31栄幸丸が私より先に行くようになった。ずーっと真横にいてくれた船が私を置いて行く。「どうして?」、泳いでも泳いでも追いつかない。「もっと速く泳がないと流されてしまうのか?」、私は必死である。後から聞けば、ベルトコンベアから脱し、早く反流に乗せようと安宅さんも必死だったらしい。
 北海道に近づくに連れ水温は19℃と低くなり、持病の大腿部痛が心配になってきたが、どうにかキックは打てている。そんな折、船上スタッフ全員が前方を見つめている。「もしや・・・」と思った予感が的中した。安宅さんの弟、善春さんが仕事を終え、自分の船で駆けつけてくれたのである。絶対に来てくれると私も信じていた。善春さんは「ミユキ、お前は俺を親父だと思え」と言ってくれる。今回も「ミユキ、俺はお前の泳ぎを見たとき、感動の涙で前が見えなくなったぞ」と言ってくれた。おそらく数多い善春さんファンの私も一人である。その善春さんの応援が、私の大腿部痛の心配を吹き飛ばしてくれた。
 暗くなる準備でカラーゴーグルをケミカルライトのついたクリアゴーグルに取り替えた。この時すでに左眼はほとんど見えず、片眼で泳いでいた。ゴーグルを替えても症状の変化は無し。すると突然船が止まった。第31栄幸丸はそれ以上接近できないほど岸の近くに寄ったことを私は知らない。すると善春さんの船(喫水が浅い)が「こっち、こっち」と言わんばかりに岸よりで誘導してくれた。右眼でその先を見ると、岸では20人くらいの人が私を待ってくれている。見える眼からも見えない眼からも自然と涙が溢れる。念願の、念願の津軽海峡を泳いだのだ。岸寄りの波をあまり好まない私だが、人前ではわざと威風堂々の姿にしてビーチに上がった。函館市浜町の到着時刻は18時15分。佐井を出発して11時間36分後のことだった。
 「皆さん、夢の津軽、津軽海峡を泳ぐことが出来ました。ありがとう!」と、御礼の挨拶をした。知らせを聞いて駆けつけてくれた安宅さんの親戚から花束を受け取る。こんな経験は初めてだ。端っこの方に安宅さんの奥さんも双眼鏡を首から下げて嬉しそうに立っている。縁の下の力持ち、陰の立役者のお母さんと握手をした。それから出迎えてくれた人に「ありがとう、ありがとう」とお礼を言いながら握手をし、ふと海を見ると・・・、到着の合図でケミカルライトを振るのを忘れている!慌てて船に向かって手を上げケミカルライトを振った。私らしいドジだった。

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こんなもんかな?

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そんなもんだ!

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よっしゃ―!!

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津軽の海は・・・

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フラットな海と、、、

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チョッピーな波が、、、

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次々とやって来る。。。。。。。

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だから面白い!!!

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船頭さんの弟さん(漁師)が迎えに来てくれた。

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もう少しだ!

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よし、オレについて来い!!

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わかった!

2005年8月30日 津軽海峡単独横断泳の報告(2/4)

2.津軽海峡の微笑
 夕べ寝る前に津軽の神様にお願いをした。「明後日、私は帰ります。それまでにどうぞ私を泳がせてください」と。函館の海上保安部からは、「明日も同じような天気じゃないでしょうかね・・・」と言われていたのもあった。
 早く寝たせいか、3時の目覚ましと共に起きる。外に昨日の早朝に見た稲光はない。身体はすこぶる絶好調だ。水筒にお茶を入れ、朝の身繕いを終えると安宅さんのお宅に向かう。するといつもと違う。奥さんが台所でウロウロしている姿が窓越しに映っているのだ。クルマを降りるとご飯を炊いている良い臭いがプ~ンとしてくる。思わずにんまりした。玄関の扉を開け「おはようございます!」と元気に挨拶しながら入ると、台所では奥さんはおにぎりに入れる具と海苔の準備をしている。「ヨッシャー! 今日は泳げる!」と確信した。
 それでも慎重な今回のパイロット、漁師の安宅さんは「行けるところまで行って、風が強ければ帰ってくればいいよ」と、電話から流れる地方気象台の音声を聞きながら言っている。しかしその声は私の右の耳から入り、左の耳へと抜けて行った。頭の中には「泳げる」、「泳ぐ」と言うことしかない。どんな思いでこの8月の津軽を泳ごうとしていたか・・・。石井コーチと私は心ウキウキ栄養補給食を作っていった。
 4時半出航。第31栄幸丸(4.2トン)は私たちを乗せてスタート地点である青森県の佐井に向かって20ノットで走る。船は時折波にぶつかって、"ドーン"、"ドーン"と上下左右に。その度に波飛沫が強風で飛ばされて来る。私は飛ばされないようにしっかりと手すりに掴まって、「スリル満点でおもしろーい!」と楽しんでいる。
安宅さん「船の下で寝て行くか?」
私「大丈夫。波が見たい!」
 津軽海峡の潮は種類が多いようだ。おそらく日本海から流れる潮と、オホーツク海から入る潮が鎬を梳っているのであろう。スーッと丸みをおびた波の潮があるかと思えば、バシャバシャの三角波で、波頭が崩れて白くなった潮が流れているところもはっきりわかる。種類の違う潮同士が接触している潮境では渦も見ることが出来た。「ここを私は泳ぐのだ!」と思うと、不思議と不安は無く、希望ばかりが頭の中を占拠していった。待ちに待った津軽海峡を泳げるという希望が、要らない不安を追い出したのだ。
 後ろを降り返ると私たちの船の通った航跡が北海道まで続いている。東の方からは朝日が昇り始めた。「フッフッフ・・・、太陽よ、今日の私の泳ぎについて来なさい」。あたかも私中心で宇宙全体が回っているような錯覚にとらわれ、思わずその美しい日の出に向かってカメラのシャッターを切っていた。
 テレビで見た「大間のマグロ」から「津軽を泳ぎたい」と石井コーチに頼んでここまで来たが、実際の大間は「マグロより漁船の方が多い」と言う。海を見て「なるほど・・・」と思った。
 下見で来た佐井の願掛岩隣にあるビーチのスイミングハウス(更衣室、シャワー、トイレ、休憩室などが整っている施設)下まで来た。船がこれ以上岸に近寄れない位置まで来ると、石井コーチに擦れ予防のラノリン(羊毛から抽出した脂)をタップリ塗ってもらい、泳げるようにしてくれた全てのことに感謝をささげた。
 スタート地点までは一人で泳いで行く。あらかじめビーチから船までのコースをイメージし、「宜しくお願いします。行ってきます!」と言って海に入った。“ビーチ”とは言えど、大きな岩がたくさんある。その岩を避けながら泳ぐ。泳いだ感覚は「波も無いのに泳ぎにくいな。身体が重い、手も重い。こんなんじゃ疲れてしまう!」と言うものだった。魚を見、大きな岩を避け、気分を改に替えながら泳ぐ。大きな石ころいっぱいのビーチに、"痛い、痛い"と思いながら立った。大きな岩陰に隠れていた第31栄幸丸がようやく見えた時、私は右手を上げて合図を送り、ゆっくりと海に入り、ゆっくりと泳ぎ出したのである。6時39分のことであった。

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本番トライです!

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スタート地点は何処だ?

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スイミングハウス(小屋)の下からです。

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スタートしました。

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力泳開始!

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イイね!(パイロット)

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サブパイロット(船頭さんの甥っ子さん)

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力泳は続く

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アップ

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栄養補給

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海峡中央部

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力泳

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楽しい!

2005年8月30日 津軽海峡単独横断泳の報告(1/4)

日付:2005年8月30日
場所・方法:津軽東口・1-way ソロ
出発時間・場所:06:39 青森県下北郡佐井村磯谷願懸岩
到着時間・場所:18:15 北海道函館市戸井浜町
記録:11時間36分
スイマー:キンちゃん
公認:海峡横断泳実行委員会
船名:第31栄幸丸
パイロット:安宅  勉
コメント:5月に出来なかった津軽の1-wayを行った。
 キンちゃんにとって、ドーバーの2-wayで落ち込んだ気持ちを復帰するのに大いに役立った遠泳であり、大きな波や、渦の中を泳いだ経験は、その後のキンちゃんの海峡横断泳に向けての特効薬になっている。

1.津軽海峡と流泳(急がば回れ!)
 津軽海峡は本州(青森県)と北海道の間にある海峡で、日本海と太平洋とを結ぶ国際海峡である。東西は約130km、最大水深は約450m。最狭部は東側、亀田半島の汐首岬と下北半島の大間埼の間で約18.7km。西側の松前半島白神岬と津軽半島龍飛埼間は19.5kmとやや長い。海峡内は海・潮流の合成流で、この最狭部で流速が最も強い。海流は日本海から太平洋に向かって東進し、幾筋ものベルトコンベア状の流れ(幅500m前後)を作って大勢を支配している。この流速を潮流成分(往復流)が強弱(アクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだり)しており、潮時によって最狭部では最大流速7ノット(13km/h)を越したり、逆流したりする場所もある。更に沿岸付近では、向岸流や反流が見られる。
 津軽海峡横断泳の方法は、一般的なスイマーならこの反流に乗って一度本流の上流に行き、そこから流れに乗りながら泳ぎ渡る方法が良い。移動距離は長くなるが、目的地へ到着出来る可能性は高くなる。ひいては泳ぐ時間が短縮出来る推測も成り立つからだ。「急がば回れ!」、このような流れに乗った泳ぎを「流泳」と呼ぶことにする。
 実際泳ぐ予定コースは、大間の南約14kmにある佐井村から出発し、西(ベルトコンベアの上流)に向かって進路を取る。ほぼ10km泳いだところで北に転進し、ベルトコンベアに入る。そこからは本格的な流泳になるが、まごまごしていると太平洋まで流されてしまう。一気に函館目指して泳ぎ抜くのだ。予定コースの流泳距離は36kmだったが、実際は65kmに至るまで伸びてしまった。
 しかしスイマーによほど自信があるならば最短距離を狙う手もある。つまり潮のブレーキがかかった状態時に一気に泳いでしまうのだ。この「刹那的」とも言える方法で、スティーブン・ミュナトネス(Steven Munatones:米)は1990年、津軽海峡(龍飛埼~白神岬間)の往復泳(48km)に成功させている。(12時間52分)

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今から練習トライです。

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船頭さん(左舷にはハシゴが用意されている)

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この辺からかな?

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では行ってきます。

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水温も大丈夫です。

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海はザワついています。

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力泳

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フンフン、こんなものかな?

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呼吸も合ってイイ感じ!

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津軽の海は気持ちいい!

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アップ

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気分は『イケる!』

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イケるよー!!!

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最高!!

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スッゴク気持ち良かったよ!

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本番でも楽しんじゃうからね!

2005年8月2日 キンちゃんドーバー2回目の成功!!(写真集)

日付:2005年8月2日
場所・方法:ドーバー・2-way ソロ(英⇒仏⇒英)
出発時間・地点:08:45 Shakespeare's Cliff(イギリス)
到着時間・地点:22:26 Wissant(フランス)
記録:13時間41分
公認:CS&PF
船名:SUVA
パイロット:Neil Streeter
コメント:フランスを折り返し、3時間52分泳ぎ続けたが、オブザーバーより「危険」と判断され、17時間33分で断念した。翌3日、02時18分の出来事だった。
 1-wayで公認してもらえたが、キンちゃんは2-wayが成功しなかったことについて、非常に落ち込んだ。しかしこの努力が認められ、2005年のドーバーを泳いだ女性による最も価値のある賞として「The Gertrude Ederle Award」を受賞する。
 ガートルード・エーダリ(Gertrude Ederle:1906年10月23日~2003年11月30日:アメリカ人)は、史上初の女性ドーバー完泳者(1926年:14時間39分:仏⇒英)。
 「人々は『女性がドーバー海峡を泳ぐことが出来ない。』と言いましたが、私は自分自身で泳ぎきれることを立証しました。」(エーダリ)

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キンちゃん(ドーバーにて)

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行ってきます!

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シェークスピアビーチをスタート

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力泳開始!

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力泳中

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まだ見えぬフランスを目指して

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アップ

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キンちゃんと一緒フランスに向かうフェリー

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応援に来た仲間のボート

これから先は夜間のために写真はありません。

後日、折り返したフランスのヴィサン(Wissant)のビーチに記念の砂を取りに行った。

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風の強いヴィサンのビーチ

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ここは砂のサンドビーチ

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この辺で折り返したんだ・・・・・・・

 

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いろいろと忘れられない思い出がある。辛かったけど、忘れちゃいけない思い出が。

ドーバーのビーチに戻りました。

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アリソンと

P8060154
フリーダと

P8060149
二ールと

P8060148
ストリーター・ファミリー

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仲良しになったケイトと

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ボランティアのクリフと

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お世話になったメゾン・デュー・ゲスト・ハウス(B&B)の皆さんと

♪ヴィサンの砂♪
1.
ドーバー海峡を渡るフェリーの中で 君は突然泣き出した

理由(わけ)もわからずに僕は 君を抱きしめたけれど

君は僕のTシャツを 涙と鼻水と涎(よだれ)でビショビショにした

海を眺めていた君が もう海を泳ぎたいとは思えないと 敗北を認めたとき

溢れる涙を堪えずに 僕の胸で人目も気にせずワンワン泣いた

*サビ
君はいつも夢追いかけて 懸命に泳いだね

日本人初の ドーバー往復泳を目指して

すでに君は 日本一のオーシャンスイマーだよ

2.
イギリスのシェークスピアを泳ぎだし 君はフランスを目指した

フランスのヴィサンを折り返し 再びイギリスを目指したね

だけど途中で力尽き リタイヤした辛さを思い出していたんだね

海を眺めていた君が もう海を泳ぎたいとは思えないと 考えさせないよう

僕は君を誘ったのさ ヴィサンの砂を思い出に取ってこようと

*サビ

3.
ドーバー海峡を渡るフェリーの中で 僕は必ずと誓った

君の願いを叶えてあげると 約束したことを守ると

それから君は津軽を泳ぎ 成功して自信を取り戻したのは良いけれど

リタイヤすることも ヴィサンの砂を見れば平気になったよ 強くなったね

君はもうすぐ泳げるさ Queen of the Channel in Japanなのだから

*サビ

Queen of the Channel in Japan  Queen of the Channel in Japan

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