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1975年(昭和50年)ころの思い出

 今年、津軽海峡遠泳協会を発足したが、ヒョンなことから自分の過去を思い出す気になった。初の津軽海峡横断泳は1975年(昭和50年)のことである。
 ところで今から数年前、事情でそれまで事務所だった場所から自宅へ事務所を移すことになった。ただでさえ狭い我が家に事務所そのままの移転は無理なので、過去の資料など約80%を処分した。もちろん10年以上前の横断泳の資料も処分の中に入っていた。
 蜘蛛の糸より細くなった記憶の糸をたどり、図書館や新聞記者さんのご協力により、当時の世相からもいろいろなことが思い出された。
 そこで皆さんも1975年ころへタイム・スリップ!!

 昭和50年(1975年)8月12日(火)、トラジオンスイミングクラブに通う身障中高生4名と私とで、青森県小泊の権現崎から北海道福島の女郎岬まで約40㎞をリレーで12時間かけて泳いだ。
 この遠泳は後程このブログで紹介するが、社会からは“絶賛”と“批判”が同時進行で行われた。何故ならば、身障者が一般の公共施設であるプールに、自由に入れない時代だったからである。今では“差別”と社会問題になりそうな事態だが、当時は“障害者”=“危険”という認識が一般的で、そんな“危険”な人間が“危険”な津軽海峡を泳ぐ、といった行為が批判を浴びたのである。
 一方、“絶賛”という部分では、“身陣者に希望の灯”と新聞にも称えられるように、障害者に市民権が得られるための導火線になったようにも思える。どうしても私には批判覚悟の上での“障害者の認識向上”に、津軽海峡横断泳は必要な行為であった。ま、もちろん“22歳”という若さの暴挙に取られても仕方のない年齢でもあったが・・・。

 この年8月31日、東京・代々木の国立オリンピックプールで日本水泳連盟主催による「日米水泳リレー大会」が行われた。この大会のキャッチ・コピーは「世界記録への挑戦」だったのだが、実際は大阪で行われた「日本学生選手権」でアメリカ水泳陣が招待された後だったこともあったのか、疲れもあったようで平平凡凡な記録に終わった。
 しかしそれがラッキーだったのかもしれない。津軽を泳いだメンバーはこの大会に招待され、大会中のデモンストレーションとして50mを泳いだ。むしろ50m完泳後、アメリカの選手たちが飛び込んできて抱き上げる姿の写真が新聞に紹介され記事となった。それは本命のリレー大会よりも大きく紹介されたように思う。
 昭和50年11月1日(土曜日)に日本水泳連盟ではこの年の報告書を作っており、“◆日米水泳リレー大会裏方記”として紹介している。
 特筆すべきはもちろん津軽泳の私たちではない。この日、オリンピックプールには8千人の観衆で埋まり、水泳競技会としては東京オリンピック以来の盛況となったことである。
 これには三つの大きなねらいがあった。
 第一は、これを“日米対抗水泳”復活の足掛かりとすることだった。当時、世界の第一線から後退した日本水泳界の不振ぶりに、再び世界のレベルに追い付いて“米国に挑戦状をたたきつけたい”という願い。
 第二にようやく上げ潮になってきた水泳界の基礎を、更に下から盛り上げて、外国に勝てるムード作りをすることにあった。そのためには、とにかくプールサイドを満員の観客で埋め、熱っぽい雰囲気をかもし出すことが、泳ぐ選手の力が入る行為とつながると気付いたところであった。
 このために“1万人動員作戦”が行われ、“世界記録への挑戦”のキャッチ・コピー、テレビの全国中継、エージグループの対抗レースなどなど・・・。
 第三は“新しい形式による水泳競技会”の工夫追及。
 エキシビション(公式記録としない公開演技や模範試合。勝ち負け抜きで行われる特別実演)を入れたり、当時ブラウン管の人気者であった元オリンピック選手、木原美知子をインタビューアとしてプールサイドに引っ張り出したりした。
 当時、アマチュア規定が緩んできたにしても、演出の上では新たな試みでもあった。実際のレースでも記録は不振で、むしろチビッ子の日米対抗の競り合いのほうが盛り上がり、脇役が主役を食ってしまったような形になった。

 たまたま今年はロンドンでオリンピックが行われている。
 そういえば1972年、第11回札幌冬季五輪までIOC(国際オリンピック委員会)会長をやっていた第5代ブランデージ会長(1952-72年:米国)は、原理主義的なアマチュアリズムを唱え、「ミスター・アマチュア(リズム)」と呼ばれた。
 札幌五輪ではアルペンスキーの板が真っ白に塗り替えられ、勝者はテレビに映る前に自分のはいたスキーの板は取り上げられてしまった。今では当たり前になった“滑る広告塔”として「私はこの板をはいて滑りました」というのが信じられない時代であった。
 IOC会長が6代目のキラニン(英国)に交代して早々の1974年のIOC総会で、ついにオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されるに至った。
 日米水泳リレー大会でも日本水泳連盟はそんな時代背景を背負っていたのかもしれない。
 更に1980年代からサマランチ会長(スペイン)の時代になると、第14回冬季サラエボ大会(1984年、当時ユーゴスラビア)のアイスホッケーを皮切りに、プロ選手の導入が始まり、夏季大会のテニス、サッカー、自転車、バスケットボール、野球などにもプロが登場。今日ではアマチュア規定があったことさえ知らぬスポーツファンが当たり前になった。

 今回はスポーツ、ことにアマチュアリズムが主体になってしまったような気がする。障害者スポーツや遠泳のことを取り上げたいのに・・・。しかし障害者スポーツや遠泳を取り上げるにしても、そういった共通の時代背景を認識してもらうことが、より理解を深め、わかりやすくなるものと思い、あえて出した。退屈な文章に付き合っていただけたことに感謝します。

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