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わくわく、どきどき、台風の目。

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2010年5月の記事

すべてはドーバーのために15/2

泳ぐのがベスト

 どうしてこのような無謀、無茶な事(家族に言わせると、でも誰でもが出来ることではないとは認めてくれているのだが)やるのかと言われるし、聞かれる。何かのイベント?それで何人くらいで歩いたの? とも聞かれる。いや、全くの一人旅、自分ひとりで計画・実行していると言うと大抵の人は驚く。
 なぜ、このようなことをやるのか、それは海での長時間泳のトレーニングの一環であると私は位置づけているのである。遠泳ならば海での遠泳の練習をやるのが一番のはずだが、海の練習は陸上と違い、1人で何時間も泳ぎ続けられない。まあせいぜい1人で泳ぎ続けられるのは水分・エネルギー補給品を持っていても4~5時間ではないだろうか。
 船上から見ると海を泳いでいる泳者を確認出来るのは派手な色の水着とスイムキャップぐらいである。でも、気をつけていないと何か浮遊物だと思われるかも知れない。第一、船のパイロットは沖を泳いでいる泳者がいるなどとは、まず思わないだろう。過去に私は1人で江ノ島一周を泳いでいた時、遊漁船に通報され、江ノ島の海上保安所の船に注意されたことがある。「沖を1人で泳いでいる危険な奴がいるので危なくてしょうがないから何とかしてくれ」と通報があったそうである。
 海での長時間泳には支援船、サポートの人が必要であり、船、人の手配、そして資金等々、中々気軽には出来ない。それに私の経験から海水温20℃以下の中での10~15時間の長時間泳は、泳ぎ切れる体力は勿論だが、それ以上に要求されるのが精神力・気力である。低水温での遠泳の体温低下は想像を絶する体力の消耗と、気力・意識の低下を招き、思考力はゼロになり、最悪の事態を招くことになりかねない。それを防ぐにはやはり練習しかないし、冷たい水に常に体を慣らしておくことだろう。
 遠泳仲間である愛知県岡崎市の藤田美幸さんはイギリスでは「日本のドーバークイーン」と呼ばれている凄いスイマーである。彼女はドーバー海峡単独横断泳の2wayを目指して泳ぎ続けているが、昨年(2009年)までに1wayは既に7回成功している。昨年の夏には2way成功にあと4マイル(約6.4km)まで迫ったが、体力・精神力の限界でリタイヤ、28時間余り泳ぎ続けた凄い人。
 彼女の海練習で何度か一緒に泳いだり、サポートをさせてもらったりしたが、1月の水温が12~13℃の海を7~8時間泳ぎ続けられるともかく凄い人です。

すべてはドーバーのために<15/1>

東京~箱根間駅伝コース往路を制覇
(東京~箱根間往復大学駅伝コース)
          2010.4.29~4.30
          歩いた人 湘南の主 65歳

S2010_4_29_004

S2010_4_29_031

計画

 今年も昨年同様、5月の連休を利用して長時間歩行を計画・実行した。今年の桜の開花は予報通りの3月20日前後に咲き出したが、その後ググっと冷え込み4月に入って所によっては雪なども降ったり、冷雨が降り続いたりで気温が上がらず、桜も随分長い間咲いていた。連休間近になりやっと平年並みの気温に戻り暖かくなってきた。
 異常気象なのか? 海水温も上がらず16℃~17℃と例年より半月ほど遅れており、海練習でもウェットスーツが中々脱げない日々が続いていた。
 昨年の長時間歩行実施の動機は水泳クラブチームの30分間泳に参加された仲間の頑張りに刺激されたのだが、今年の動機付けはどうするか?
昨年の長時間歩行では後半から終盤にかけての己の精神力、体力の弱さを実感し、思い知らされたので、今回は終盤に「箱根の山登り」考えただけでも挫折し、くじけそうな大学駅伝コースの往路にあえて挑戦してみることにした。
 昨年の復路コースは23時間で完歩出来たが、今回は最後に箱根の山登りがあることを考えると24時間以上掛かると思う。又、歩道がない箱根の山登りを日中に考えるなら、東京のスタートは前日の昼前後がベストだと考える。
一番心配な天候だが週間天気予報によると、連休中は晴天に恵まれそうとのことなので、ならばなるべく連休の早めにスタートして、連休後半は疲労回復に当てられると考えて連休初日の4月29日(木)をスタート日と決めた。

パシフィック(太平洋)オープンウォーター2010

Pacific Open Water”アメリカの情報を流しているウェブサイトです。

いろいろな大会情報もあります。

日本語でご覧になるには、「ウェブページ翻訳」で検索されて、そのサービスをご利用ください。

エベレストを泳ぐ(Lewis Gordon Pugh)

イギリス人Lewis Gordon Pugh(ルイス・ゴードン・ピュウ)は、2010年5月22日、世界最高地であるエベレストを泳ぎました。

彼は2007年7月に、北極点も1km泳いでいます。記録は18分50秒。

世の中にはいろいろな人がいるもんで・・・。

夢の“夢追い基金”

日本では“MX”と呼ばれるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が流行っているそうである。ところが残念ながらアナログ世代の私にとっては難解で、“MX” と言うか、そもそもSNSと言うのがよくわかっていないのだが、おそらくMX同様なサービスを行っているSNSがある。

ドーバーに毎年行くようになって、友達になった周囲の人たちの勧めもあり、よくわからないままに“FB”と呼ばれるSNSに入った。まあよくわからないだけに、“ドーバー関係者専用”として使っている。

そのSNSの私のアドレスへ、「弁護士」と名乗るWHからメールが入ってきた。
内容は次のようなものだ。
「拝啓 トラ様
私は相続専門の弁護士WHです。故J.Aトラ氏の顧問弁護士でもありました。(J.Aトラ氏は西アフリカのトーゴ共和国でC社を経営していました。)
2007年4月21日、私のクライアントであるトラ氏は、奥さんと一人娘を引き連れて自動車事故亡くなりました。
しかし残った定期預金(1,050万USドル)は銀行に預けられていますが、正統な財産引受人が現れない限り、私への報酬も失われてしまいます。
どうか私を助けてください。
それでは。WH」

まず私の名前をフルネームで知っているのもおかしいし、どうやってSNSに入ってきたか不明だが、いちおうはその“J.A.トラ氏”と私は無関係だし、それこそ「田中」、「佐藤」、「鈴木」ほどではないにしても、私の名字などは日本では珍しくない普通の姓である。
しかしまあ亡くなられたJ.A.トラ氏には同姓として、お悔やみを申し上げなければならないだろう。

「WH様
残念なことに、故J.A.トラ氏と私は無関係です。
しかし、自動車事故で亡くなられたトラ氏と彼のご家族にはご冥福をお祈りします。
また、あなたを助けるのにおいて可能ならばお手伝いもします。どうぞどのようなお手伝いをすれば良いのか私に知らせてください。
敬具 トラ」
と返事をした。

すると再びメールが来た。
長いので簡略化する。

  1. 故J.A.トラ氏と私が同姓なので、遺産相続の近親者としての正当な手続きに誰も疑わない。
  2. 遺産相続として主張できるあらゆる書類をWHが持っている。
  3. 請求しないと無請求預金として銀行のものになってしまう。
  4. 故J.A.トラ氏の遺言で、総額の10%が慈善団体に寄付をされ、50%が私に権利が与えられ、残りの40%がWHの報酬になる。
  5. この取引は最大の信用、誠意、および秘密性を必要とする。
  6. 云々

つまりこの弁護士は「遺産相続の近親者として私の姓を貸して欲しい」と言うことだ。しかしこれは偽りだ。法律に素人の私にさえ「これは偽証罪に当る」と判断できる。そんなことを弁護士が言ってくるか??

当初私は“1,050万USドル”を“1億円”と計算をした。
つまり1千万円が慈善団体に寄付をされ、5千万円が私に来て残り4千万円がWHの報酬となる。
まあWHにしてみればそうとうな報酬額になるわけで、そういう意味では必死になっているのかもしれない。しかし虚偽は嫌だ。遠い西アフリカからでは日本の正当な近親者の捜索は難しいのかもしれないが、弁護士が虚偽を依頼してくるか? と思うと無視をすることに決めた。それに日本にいるからとて、正当なトラ氏を私が探すなんて限りなく無謀に近い。
また私が知っている私と同姓の者にこのようなメールが来なかったか聴いてみた。すべて答えは「No」だった。つまりWHは私以外のトラへの捜索は行っていないのである。やはり新手の“振り込め詐欺”以外に考えられない。
おそらく次に来るメールは「手続きのための費用、1,000USドルを私の口座に振り込め」とか言ってくるのだろう。

しかし「5千万円あったらキンちゃんを何回ドーバーに連れ出せるかな」などと考えると、まんざら楽しくないわけでもなかった。やっぱり私の頭はちょっと“おめでたい”のかな??

その後、USドルに詳しい知人にこのことを話した。すると「トラさん、1,050万USドルは10億円だよ」と言われた。
ヒェ~~~~、10億!!!
WHの報酬が4億ならば、もっと正当な受取人トラ氏をまじめに探すだろう!!
そして5億円が私の手元にあったらと考える。まあ相続税で8割取られたとしても、1億は残る。「1億あったら・・・」と考える。

先日、去年伊豆大島から茅ヶ崎まで(60km)を泳いだ鈴木一也氏からメールと電話をいただいた。「伊豆大島から茅ヶ崎までの泳断を、あと10年は続けたい」のだそうだ。
世界最高齢のチャネルスイマーを目指す湘南の主さんからは、「去年同様に“箱根駅伝”のコース(復路)110kmのノンストップ歩行にチャレンジし、無事完歩した!」とメールが来た。ドーバー泳のための精神力を養っているのだそうだ。近いうちにこのブログで報告することも出来るだろう。
キンちゃん(日本人初のドーバー2-wayを目指す)を初めとする「夢追い人」を私はたくさん知っている。そしてその結果が良しも悪しきも“努力8~9割、運1~2割”も知っている。しかし日本人の感覚では“良し”以外は認められていないのだ。つまりいくら努力しても、結果が“悪しき”と出た場合はその努力は認めてもらえない。・・・逆を言うと、強運の人はたいした努力もせずに社会が認めてしまう現状を、“嫌”というほど(でもないが)見せ付けられてきた。
まあそれはそれで“運も実力のうち”として良いだろう。しかし“努力のみ”で諦めさせてしまう日本の環境を、どうにかして打開させたいと私は願っている。
そういった人々の「夢追い基金」として、この1億円(もしくは5億円?)は使えないだろうか!? と考えた。すると夢は広がる、広がる~!!

ここしばらくはこの“5億円の夢追い基金”として夢を見続けることができるだろう。そういうことではこのインチキ(?)弁護士、WHに少しは感謝しなければならない。
5億円を私個人としては一生掛かっても使いきれないが、夢追い人の基金としてなら有効に使えるだろう。そして私個人の遺産相続を考えると・・・、ハァ~・・・、弁護士を雇えるほどの遺産は何もないなぁ~・・・。それが幸せなんだか不幸せなんだか・・・。

ちなみに鈴木一也氏は子どもたちを対象にイベントもやっています。参加協力できる方は彼に連絡してください。

・・・と書き終わったところで偶然にもうわさのWHからメールが届きました。
内容は「私を信用しろ」とか「お互いの共同作業にしよう」とか・・・。
しかしまあ長く間違いだらけの英語。まあもっと出来ない私でも間違いを指摘できる程度の英語。
「弁護士ではない」と疑い始めたのも、この弁護士とは思えない英文の書き方。
まあ皆さんもこのようなメールにはご注意ください。そして全国のトラさん、もしこのようなメールが来ていたら、そっと私に教えてください。

― 黒潮旅泳 ― 14/14.地球人になろう

 今年はぼくと同い年の向井千秋さんが宇宙を旅した。宇宙から地球を振り返ると、それまで地上では気付かなかったいろいろなことが分かるそうだ。もし「どこへでも連れて行ってやる。」と言う人が現れたら、迷わずぼくは「宇宙に行きたい。」と答えるだろう。それほど向井さんがうらやましかった。
 宇宙から地球を眺め続けている人工衛星「ランドサット」から中国の黄河を見ると、何千年、何万年単位の昔と今ではかなり流れ方が違ってきている。それはまるで窓ガラスの上を流れ落ちる水滴のようにジグザグと蛇行して、時により大幅にその河筋を変えているのだ。
 昭和63年、ぼくたちは中国の長江(揚子江)横断遠泳に出かけた。例の「天安門事件」が発生した前の年である。市内観光をしていると河川港の遺跡に出くわした。現在流れている揚子江より数キロ離れた場所である。
 このように河川だって自由奔放に流れたいに違いない。
 昨今、日本に於いては「河川の氾濫が困る。」とばかりにやたらとダムや護岸工事を進めている。これはまさに河川にギブスを填めているようなものだ。河川の気持ちになったら不自由だろうと思う。ことに今年のように水不足になると、途端に「ダムを作ろう。」という計画が持ち上がる。河川はますます不自由になって、「これでは河川が死んでしまう。」とぼくは心配になる。少しくらい人間が我慢すればいいのになあ。
 その点、河川は黒潮をうらやましがるだろう。何故なら岸はないのでそれこそ自由気まま、蛇行だって楽らくだ。脈々と生き物のように流れることが出来る。もしぼくが河川になるとしたら、河川ではないがぜったい黒潮が良い。
 河川と言えば、トムソーヤやハックルベリーの物語の中にも、河川はその物語の大演出家だ。例えばミシシッピ川を往来する蒸気船(外輪船)の操船技術についても触れている。
「ホラ、水面をよく見ろ。右前方は色も濃いし、スーッと滑らかだろう。こういうところは深くて大丈夫だ。ところが左前方を見ろ。色は浅いし、水面がザワザワと波立っているだろう。ああいうところは浅いんだ。あんなところに行こうもんなら即座に座礁してしまうぞ・・・。」
 カヌーで川下りを楽しむときもこれは参考になる。だいたい先が見えなくとも「ザーッ、」と音が聞こえればそこは瀬、「ゴーッ、」という音なら滝だと想像する。どのみち音が聞こえたら一度下船し、陸から下流の下見をすれば通れるか否かは判断出来る。滝は無理にしても、瀬はスリルがあって面白い。なるべく深いところを一気に漕ぎ進むだけである。
 さて、瀬は川のみに存在するものと思っていたが、なんと海にも存在するのだ。今回泳いだコースに「潮瀬」と呼ばれる海の瀬があった。
 冬季オリンピック、リレハンメル大会で正式種目になったスキーの「モーグル競技」(デコボコの急斜面を一気に滑り下りてその技術を争う)のバーンを想像してもらいたい。海だから斜面はないが、一つ一つのコブの高さが2、3メートル、直径は5、6メートルだ。水深は4、5メートルと浅く、潮は複雑に入り込んでいる。乱立する三角波はモーグル競技のバーンそっくりで、コブコブの波に翻弄され、それこそオーシャンブリーズは木の葉だった。
 こんなことはぼくにとっても新しい経験だ。
 結果的に言えば、自由奔放に流れる黒潮に我々は乗ることが出来なかった。
「潮と風に、四つの力相撲をしたようなものだ・・・。」
と田中さんは藤田の力泳を見ながら零した。
 海は生きている。去年のように「スーッ、」と黒潮に乗せてくれることもあれば、今年のようにまるで「アカンベー、」をしているようなこともある。生きている地球の鼓動を感じ取ったような気がした。ハダカの付き合いだから感じ取れたのかも知れない・・・。
 オーシャンブリーズはそのまま鹿児島に帰港し、その足でワンボックスカーに七人の勇者が乗り、宮崎へ帰った。24時間泳ぎ続けた割に藤田は元気だ。ほぼノーダメージのへこたれないカラダになれたのかも知れない。
 宮崎で川本、田中、川上君等と別れると、我々は「宮崎メゾンデューホテル」に泊まった。
 翌20日、関係各所に報告とお礼の電話を入れ、新聞を購入した。青春18切符で二日をかけ、奈良県まで帰る中村さんを宮崎駅まで送り、ワンボックスカーで一路東京に向かった。
 我々にとってこれからが夏休みだ。途中、大分県、福岡県、山口県と遊び、可哀想にも仕事のため一足先に帰る藤田を岩国で降ろし、家内とぼくは一度は訪れてみたかった尾道、松江と巡ってそのまま日本海沿いを新潟まで北上し、東京に戻った。
 しかしぼくの旅はこれで終ったわけではない。家内を家で降ろすと自宅では一泊もせず、そのまま青森県まで用があって出かけた。本州最北端、下北半島は大間の北岸から津軽海峡を眺めると、曇っていて見えなかったが、その向うには確かに北海道がある。
「津軽海峡と言えば、今年おばちゃんが独泳で津軽海峡を渡ったな・・・。おばちゃんと言えば、『さざなみ水泳会』のおばちゃん達もリレーでドーバー海峡の2-way(往復)を24時間14分で成功させた・・・。いずれも、20度以下の低水温だ。まさにおばちゃんパワー爆発だな。昨今、戦後の靴下以上に強くなったのはオバタリアン(おばちゃん)達だろう。
 津軽海峡横断遠泳はツロージョンでも過去二度ほど泳いでいる。他にもカヌーやら遠泳やらで横断している人は結構いるが、ほとんど西側の津軽半島から出ている。ならば東側の下北半島からツロージョンがアタックしてみるか・・・。しかし九州生まれで低水温のニガテな藤田には無理かな・・・。」
等々、アゴを撫でながら考えてみた。
 9月1日から通常通り始まる水泳教室の2時間前にぼくは東京に戻った。
 8月13日、九州に向かって旅立ってからワンボックスカーの走行距離はなんと5,000キロ以上を走破した。ちなみにワンボックスカーは3年で10万キロを突破している。よく走るよ・・・。
 今年はまさに日本列島縦断だった。

「船長、地球は素晴らしい星ですね。ぼくも地球人になりたくなっちゃった・・・。」
「いやいやまだまだじゃよ。地球人には『地球人』という自覚が少し足りんようじゃ。むしろ『日本人』とか『アメリカ人』とか、小さな地域の意識の方が優先しておる。だからイデオロギーとか宗教とか、『正義』の名の下に実は私利私欲で『戦争』と言う殺し合いを未だにしておる。もう少し『地球人』という自覚を持たないと、自ら破滅への道をたどるだろう。」
「でも『竹内』って人は彼自身の宇宙観がありますよ。」
「いいや、彼は思春期の頃、『人間は考える葦である』と説くパスカルの影響を大きく受けておるのじゃ。
 その哲学とは、広大無辺な宇宙に比べれば、人間は点(無)に等しく、一茎の葦のごとく、弱く悲惨な存在に過ぎない。しかしそれは『考える葦』であり、思考により宇宙を包むことが出来る。ここに人間の尊厳と偉大さがあるという。このような『偉大と悲惨』、『無限と無』という相矛盾し合う二律背反の間で浮動する人間の存在を、パスカルは『考える葦』という言葉で象徴させているのじゃ。竹内という人間にとって彼自身が『葦』なのじゃよ。
 『葦』は水辺に群生するが、ぜったい水の流れに逆らわん。しかし流れ行くことも無い。つまり彼はいつもニュートラルでいたいのじゃよ。ポリシーが無いから組織を作ったり、参加したりすることもあまり好まん。協調生が無いのじゃ。
 1971年、彼は大学に入学した。当時、'60年代の『安保闘争』を始めとする学生紛争が下火になりつつあるとはいえ、まだまだゲバ棒にヘルメット、マスク姿という学生がたくさんおった。腕を上げ、『我々はー、戦うぞー、』などと大声でシュプレキコールを上げている横で、『ぼくはー、仲良くするぞー、』なんて考えておったノンポリ学生だ。
 確かに『遠泳』は彼の生き方そのものだが、『面白い』が原点になってやっておる。遠泳の『記録を作る。』のではなく、『記憶を作りたい。』と思っておるだけだ。まだまだ『地球人』という意識にはほど遠いんじゃよ。」
「なんだ、そうなんですか・・・。ならいつになったら地球人という意識を持ますかね。」
「そうだな、今の子供達が大人になった頃は、自覚を持って地球全体のことを考えるようになるじゃろ。」
「その頃が楽しみですね、船長。その時ぼくはもう一度地球にやって来て、地球人の友達を作りたいなぁ。いいでしょう船長。」
「そうだな、じゃあその頃もう一度来るとするか。」
「ありがとう船長、バンザーイ。」

― 黒潮旅泳 ― 14/13.黒潮に向かって

 8月18日午前7時。種子島浦田海水浴場。
 浜には民宿「はかぜ」の親子やたくさんの住民らが集まっていた。人々の声援に手を振って答える。天気は晴れ。周囲からは「これから暑くなるぞ。」といった気配が感じられる。目の前にはコバルトブルーの美しい海が広がり、沖でオーシャンブリーズがボクのスタートを待っている。
 今までこの計画を準備してくれた竹内先生や他のスタッフ、支援をしてくれた方々の期待に応えるために、14時間、何がなんでも泳ぎ切らねばならない。そんな決意を胸に泳ぎ始めた。
 波は穏やかで水温も26.5度と高い。遠泳には申し分のない条件だ。それでも体温を下げにくくするため、ワセリンを体にたっぷり塗った。
 スタートしてから30分経過。順調に進んでいるようで種子島がどんどん小さくなっていく。はるばる種子島まで来たのに、海だけしか知らないのは残念な気がしたがしょうがない。違う機会にまた訪れよう。
 出発してから1時間半。
 泳いでいる真下に岩礁が・・・。かなり沖合まで来たはずなのにおかしい。イヤな予感がした。「浅いということは波が高くなるんじゃなかったっけ・・・。」などと考えていると、波がどんどん高くなってきた。三角波とうねりが合わさって美しい海はどこへやら、大暴れし始めた。波の高さは2、3メートル。下から押し上げられては頭から急降下。うねりの一番下に入ると周りの海が壁のように立ち上がり囲まれてしまう。水面と同じ高さのボクには恐ろしい光景だ。
 いつの間にか横にいるはずのオーシャンブリーズが居ないのに気付き、捜すと20メートル程離れた場所で、大きく深い溝のような波に出入りする船が見えた。あいつがオーシャンブリーズで離れているのは心細いが、いつ自分の真上にあいつが乗っかってくるか知れないから近付けない。
 よく見えないが、船内は掴っているのが精一杯なのではなかろうか。気の毒に・・・、これなら海に入っている方がいくらかましだ。
 波のタイミングを計って呼吸したり、体のバランスを保つため、波の中に手を突っ込んだり大忙しだ。余計な力を使わないようにしているつもりだが、体が折曲げられてしまうので腹と背が随分きつかった。
 それからも約1時間、海は荒れたままだった。
 午前10時。やっと1回目の休憩だ。
 本当は2時間毎に休憩を取るはずだから9時の予定だったが、波が高かったため1時間ズレ込んでしまった。
 まだ頭がグラングランする。酔ったみたいで気持ち悪い。少しもどしたが、栄養補給をしておかないと後々響くから、無理やりゼリー飲料や熱い紅茶を流し込んだ。
 酔いはなかなか治まらず、その後何回も吐いた。
 波は幾分治まって呼吸しやすくなった。「やっと自分のペースで泳げる。」と思っていると、山下先生が「油、油、」と叫んでいる。辺りは黒い油の海に変わっていた。水面に5ミリ程の厚さで広範囲に渡って油が浮いている。自分の腕や肩をふと見ると、大小のオイルボールでベットリと黒いシミが出来ていた。おまけにすごい臭いで胸がムカムカする。
「今度は油かよ。」とヤケクソ気味に突進して行った。
 自分の作る水流で油が口に入ることは無い。が、気持ち悪い。体のシミは増え、スイミングゴーグルの視界まで悪くなった。泳ぎ始めてまだ数時間、先が思いやられる。
 後で聞いた話では、外国船が夜半に投棄したものらしい。
 クラゲだ、全身がチクチクヒリヒリする。
 海を泳ぐ上で危険な生き物というと「サメ」を思い浮かべる人は多い。が、クラゲも忘れてはならない。差し迫って厄介なのはどちらかと言えば「クラゲ」の方だ。お盆を過ぎて水温が上がった頃は、クラゲがウジャウジャいる。
 腕や首、肩だけならまだしも海水パンツの中まで入ってくる。怪しい形をしているクラゲは必死にかわすが、かわす隙間が無いときは、「なるようになれ、」といった気で突入して行く。
 カツオノエボシに触れると火のついた導火線を腕に這わせているような感じになり、非常に痛い。体を洗った後も触手が腕にへばり付いていたのには驚いた。
 また、チクチクするのにはプランクトンのせいもある。エビやカニの幼成が混ざっている。
 高水温のせいか体の方はよく動く。低水温と比べ、疲れ方が全然違う。ところが長時間水に漬かっていると26.5度位では「身体は動くが寒くて堪らない。」という状態になる。朝方は一日の内で一番気温が下がる。泳ぎ続けることは出来るだろうが、精神的に辛い。
 午後7時。日が暮れてきた。
 出発してからどのくらい進んだのだろう・・・。予定ではとっくに黒潮本流に入っていなければならないのに、まだ30キロ位しか進んでないらしい。2時間で5キロ位しか進まないようだ。どう計算しても200キロは無理だ。この分だと100キロも難しいだろう。思ったより風の影響が強い。
 どうもオーシャンブリーズが近寄り過ぎて泳ぎづらいと思ったら、オーシャンブリーズが風に押し流されて来る。結局ボクが方向を変えたりしなければならず真っ直ぐ進めない。
 この段階で「200キロ」は諦めるより他無いようだ。完泳を目指そう。まだ終ったわけじゃあない。
 日没が午後7時30分。夜明けが午前6時。「10時間半もの間、暗がりを泳がねばならぬのか。」と思うと気が遠くなる。
 夜空に月が昇り海面はこうこうと月明かりに照らされて明るいのに、海中は自分の廻す手に夜光虫が光るくらいで、暗く何も見えない。
 夜の海は何度か経験しているが、一晩中泳ぐのは今回が始めてだ。オーシャンブリーズからボクの周りをライトで照らしてあるから泳げるようなものの、気味が悪い。上がれるものならすぐにでも上がりたい。明る過ぎる程の明かりが欲しいが、光には集魚性があるため、あまり明るく出来ない。中でも「ダツ」(サヨリの仲間)は口が尖っていて、光を目掛け猛スピードで突進すると言う。夜のダイバーはよく事故に遭うらしい。
 ついつい泳ぐ前に聞いた田中さんの「恐い話」を思い出してしまう。
「ある晩に、宮崎県都井岬沖合で貨物船が転覆した。すぐ救助に向かったが、現場では人が片っ端からフカに襲われている最中で、助けようとしたがみんなダメだった。」
 そんなニュースは聞いたことないから、死んだ人は行方不明になっているのかも知れない。
 都井岬というのは、現在泳いでいる地点から程近い。思い出さないように努力してみるが、いつの間にかその話にたどり着いてしまう・・・。陸の上で聞くにはいいが、泳ぐ身にしてみれば残酷だ。「いきなりサメが襲ってきたら・・・、」とか、「死者の亡霊を見てしまったら・・・、」と思うと生きた心地がしない。聞かなきゃ良かった。
 本当に恐いんだから。やって見れば分かるけど、ションベンちびっちゃうよ。
 疲れてないうちは次から次へと長時間いろいろ考えていられるが、疲れてくると考えるのも億劫になって頭はボンヤリしてくる。どうも集中力に波があって24時間の間、集中してはボンヤリしたり、ボンヤリしては集中したりの繰り返しだ。
 夜中の12時。
 相変わらず距離は延びてない。ほとんど自力だけで進んでいるようだ。このままでは黒潮に乗る前に24時間経ってしまう。頭はボンヤリし、眼を開けるのも辛くなってきた。「せめて完泳だけはやるんだ。」と気を引き締める。
 8月19日午前5時30分。
 ああ、やっと空が白み始めた。陽の光がこんなに嬉しいと思ったことはない。こんなに待ち焦がれたこともない。体が暖かい空気を感じて喜んでいるのが分かる。
 午前6時。最後の休憩を取る。
 海の中で青紫の蛍光色に光る虫が輝き出した。水を引っ掻くと輝く夜光虫と違って、これは朝日を浴びると光り出すらしい。疲れも忘れて暫し見とれる。
 最後の1時間は川本さんと川上さんがすぐ側で泳いでくれた。川上さんは何を思ったかゴーグル無しの顔上げクロールで泳ぎ始め、約5分で力尽きオーシャンブリーズにしがみついた。溺れているみたいで可笑しくてしょうがなかった。
 午前7時。完泳。
 種子島から直線で65.4キロ。200キロにはほど遠く、黒潮本流にたどり着けなかった。風向きが逆ならばうまくいったと残念でならない。しかしこればかりはしょうがない。
「終ったァ、もう泳がなくていい。」
 完泳した喜びよりも自分の役目を果たしたという充足感があった。
 体中のワセリンを洗い流し、グッタリと横になりながら夏の出来事を振り返って、「夏が終ったなあ。」と思った。
 ツロージョンスイミングクラブで海を泳ぐようになって6回目の夏を過ごした。
 最初は大学4年のときの「駿河湾横断リレー遠泳」。小学2年から6年までの子供達が30分から45分ずつリレーをして湾を横断した。
 子供達は大きな波の中をヒラリヒラリと金魚のように泳いだ。伴走船が側にいるとはいえ、広い海のド真中を泳いで行く姿を見て、「果してボクは海を泳げるか。」とか、「海を泳ぐってどんな気持ちがするか確かめてみたい・・・。」そんな思いから遠泳と関わり始めた。
 その頃は自分が一人で泳ぐとは考えてなかったのに、いつの間にか毎年泳ぐようになった。
 今まで遠泳は「辛く、厳しい。」という感想しか持ってなかったのに、最近、海の景色がヤケに眩しく、海で起った一つ一つのことが楽しい。自分が泳いでいることさえ忘れてしまう瞬間がある。自然の中に溶け込んでいるような海との一体感を味わうことがある。
 マリンブルーの透き通った海、クラゲやプランクトン、夜光虫の輝き、荒れる海の姿、沈む夕日、暗い不気味な海の色、月明り、朝日を浴びた時の嬉しさ、どれもが心の中に残っている。こんな感激を独り占めしているボクは幸せなのかも知れない。
 大変な思いをして準備してくれた竹内先生やスタッフ、支援をしてくれた方々は、思ったほどの距離が伸びずにさぞかしガッカリしているだろう。でも夏の疲れが癒されるにしたがって、気持ちは来年の夏へ海へと飛んで行く。

― 黒潮旅泳 ― 14/12.船Ⅲ(七人の海と黒潮旅日記)

 遠泳機材はけっこう量があるので、現地の移動はクルマが良い。しかし8月13日はお盆の帰省渋滞、クルマなら何時間かかるか分からない。増してや泳ぐ前に余計なエネルギーは使いたくない。そこで宮崎へはカーフェリーで行くことにした。
 午後6時川崎発の便だから、東京を午後2時に待ち合わせれば充分だろう。
 ワンボックスカーに藤田、山下、竹内の三名が乗り、午後4時前に川崎港到着。さっそく乗船手続きをしたが、この時窓口の人に断わられた。
「宮崎行きのフェリーは台風の影響で遅れています。出発は多分午後9時を過ぎるでしょう。また宮崎には入港出来ません。日向の細島港になってしまいますが、それで良いですか。」
「はい、仕方ありません。」
「フーム、今年の船は・・・。」とぼくの動物的勘が働いた。
 予定では14日、宮崎に入港した段階で田中さんと打合せをするはずだったが、これはもう不可能。同席するはずだった川本さんも含めて知らせた。また宮崎のホテルをキャンセルして日向の予約を取ったり、奈良県から認定員として見に来る日本遠泳協議会理事、中村さんにも連絡を取ったりした。
 何だかんだとドタバタして、実際にカーフェリー「フェデラルエキスプレス」が出港したのは午後11時過ぎだった。それから22時間の船旅。船内は豪華で大きい。レストランやバーを始め、風呂まで付いていたり、途中、映画の上映があったりで旅客が飽きないよう工夫されていた。それでも台風の影響か少し揺れ、船酔いをした人がけっこう文句を言っていた。ぼくは「酔うと知ってりゃ、乗らなきゃいいのに・・・。」と思った。
 四国沖を通過するときは、藤田も山下もぼくも室戸岬、足摺岬を見入っていた。それぞれの去年(遠泳)を思い出していたのだ。
 日向細島港に着岸、下船するといきなり「ザーッ、」と一雨来た。ぼくたちは慌ててホテル「日向ロジャース」に駆け込んだ。
 翌15日朝、日向に着いたついでと言っては何だが、細島海上保安署とフェリー会社を訪れ、その他の関係各所には電話で遠泳決行を知らせ、宮崎へと急いだ。
 宮崎のフェリー待合所にて川本さん、田中さんと落ち合い打合せ。もちろんここのフェリー会社にも知らせた。その後、川本さんにお願いして藤田、山下と宮崎市の関係各所に挨拶廻り。ぼくは日南、志布志に行って関係各所を廻った。
「宮崎メゾンデューホテル」に戻ると奈良県から中村さんが到着していた。
 彼女はドーバーを二度ほど挑戦し、今年の「チャレンジ24」にも「24時間独泳」に挑戦。「50キロは泳ぎたい。」とがんばっていたのに、残念ながら途中他の泳者と正面衝突、頭蓋骨骨折という大事故で棄権。「まだ調子悪い。」とこぼしながらも、自宅奈良県から二日間掛けて、「青春18切符」でやって来た、未だ青春進行系のおばちゃんだ。
 翌16日朝、田中さんのパイロット助手、福岡県の川上君もやって来た。彼は田中さんによく
「コースケ(川上君の名)、コースケ、ワシの仕事はお前をワシの側に置いとくことじゃあ。」
と怒鳴られる。武田鉄矢のような喋り方のノンビリ、オットリした性格の好青年だ。
 ここに竹内、川上、川本、中村、藤田、田中、山下という七人が全員集合したのだ。まるで黒沢監督の大作、映画「七人の侍」に出てくる侍のような個性豊かな者ばかりである。
 ワンボックスカーにこの七人と山のような機材を積み、重々しく鹿児島へ出発した。
 鹿児島に着くと第十管区海上保安本部と鹿児島海上保安部、日本気象協会鹿児島支部を訪れ、届けと気象、海象の最新情報を入手した。またNTTで船舶電話を借り、食料を買い込んだ。
 土佐清水と種子島の関係各所には電話で遠泳決行を知らせ、あとはオーシャンブリーズに乗り込んで種子島へ向かうばかりだ。
 ところが・・・、ところがである。南九州マリーナに行ってみるとオーシャンブリーズは陸の上だ。事務所はお盆のせいか、誰もいない・・・。みんな、唖然と顔面蒼白を同時進行させた。
 直ちに田中さんは船主の小室さんに連絡を取ってみた。しかしどこへ行ってしまったのやら捕まらない。次に田中さんは船を貸してくれそうな関係者で鹿児島在住の知人に連絡を取った。また直接合いに行ったりもした。
 中にはまことしやかな顔で、懇切丁寧にアドバイスをしてくれる船頭がいた。
「今朝俺は佐多岬まで行ったが、その先は荒れていて行けなかったね。悪いことは言わない。やめた方がいい。」
 日本は「安全」という言葉が大手を降ってまかり通る国である。しかしこれは時折大変な誤解の発生原因になる。つまり「安全」が、「危険だからやめろ。」に繋がり、「迷惑。」と非難される。この世に「100パーセント安全」なんて実在しない。
 日本には「触らぬ神に祟り無し。」ということわざがある。「危険なものには近付くな。」という意味らしいが、これでは何も出来ない。「危険」というリスクを知ったならば。そのリスクをどう対処するかが賢明な発想だ。
 以前、とある学校のプールに無断侵入し、内緒で泳ぐふとどき者がいた。ただ単に泳ぐだけならまだしも、洗髪までしていく呆れた者が続出するので、担当教員も管理責任者である学校長も、「無断侵入者がもし事故でも起こされたら・・・。」と困り果てていた。
 そこで「入場禁止」の看板も立てたが効果無し。周囲を囲う壁も作りたいが、予算は無し。困り果てて水泳の専門家に相談すると、
「プールを一般公開しなさい。監視員や施設管理費などの管理運営費はプール利用者から『プール入場料』として徴収し、それを当てなさい。そして利用者にはルールを守らせること。」
 このアドバイスを聞いてその通りにしたところ、そのプールにふとどき者は居なくなったと言う。
「禁止」といった否定的な制約ではなく、「利用させる。」といった肯定的で前向きな姿勢が問題解決につながった事例である。
「危険」と言うリスクは知恵と勇気と努力でカバーする。それが人間の「叡智」と言うものだ。「危険だからやめる。(やめさせる。)」では問題の解決にはならない。「どうしたら安全に出来るか。」を考える方が正しい。
「海に行って遠泳をする。」なんて言うと、必ず「危険だからやめろ。」が正しいと勘違いしている専門家の見せ掛けがアドバイスしてくれる。「小さな親切、大きなお世話。」というやつだ。もしぼくが逆の立場だったら、持っている知識や技術、情報など知っていることは全て教えて上げよう。「やる。」、「やらない。」は当人の判断だ。そしてそれが正しい。
 結局のところ船の見付かる術は無かった。本当に今年は船についてない・・・。
 予約をしていた種子島の民宿「はかぜ」に、「到着が遅れます。」と電話を入れた。
 はかぜでは、
「電報や各報道陣からたくさん電話が入っていますよ。お食事作って待っていますから・・・。」
と言ってくれた。その優しさがぼくの心に辛く、重くのしかかる。
 もう時間の経過から言っても今日中の出発は不可能なので、またはかぜに電話を入れた。
「すいません。今日そちらへ行けないのです。船が陸に上がったままですから・・・。」
 今まで届けた全ての関係各所に遠泳順延の連絡を入れた。
 余儀無く鹿児島でホテルを取り、小室さん捜しを始めた。
 潮は待ってくれない。大潮に近付き、「18日のスタートなら午前7時が良い。」と判断した。
 夜、やっと小室さんが捕まり理由を聞くと、「新聞を見て事の重大さを知り、急に貸したくなくなった。」そうだ。「それはないだろう。」と翌朝会う約束をした。
 17日朝、南九州マリーナの事務所で我々は小室さんに会い、船を貸してくれるよう説得し、ようやく首を縦に振らせたのだ。
 再び全ての関係各所に連絡を入れ、途中、氷や燃料を補給しながら種子島浦田港に向かった。
 浦田港では民宿「はかぜ」のおかみさんと、若くて美人でかわいい娘さんが出迎えてくれた。この親子はとても優しい。はかぜに着くともう一人の娘さんがいて、やはりえらくベッピンさんだ。
 まったく男という動物は根がいたって単純スケベエである。それまでイライラ腹が立ったり、カッカと頭にきてご機嫌斜めだったりしたのも、娘さん達の前では癒されて上機嫌になり、デレーッと鼻の下を長く伸ばし、美人姉妹を見入っていた。まるで美女と野獣の民宿のようだ。
 民宿「はかぜ」には日本遠泳協議会と毎年「桜島錦江湾横断遠泳大会」を開催している財団法人「鹿児島コンベンションセンター」から、「がんばれ、成功を祈る。」と電報が届いていた。これで今までのイライラやモヤモヤを振り切って、全員やる気全開だ。
「やっと明日泳げる・・・。」という安堵感に浸ると、ぼくを睡魔が襲う。前夜からの睡眠不足もあって、高イビキで寝てしまうと、「うるさくて眠れん。」と隣で寝ていた川本さんが文句を言う。そこで彼は外で寝て、朝に「行方不明になった。」と大騒ぎ・・・。遠泳前夜の一騒動だった。

「船長、船長、もう朝の4時ですよ。起きて下さい。みんな支度してますよ。出発です。」
「ウーン、まだ眠いのぉ。昨夜いきなり『川本』って人が、我々のところにやって来て寝るんじゃから・・・、いつ見付かるかと気がきじゃなかったわい。ところでサンプル収集はどうした。」
「竹内って人に喋らせておくと終りませんよ。」
「そうだな、じゃ実際に泳いだ藤田って人に聞いてみるか。」

― 黒潮旅泳 ― 14/11.船Ⅱ

 6月のカレンダーを破り捨てたが、伴走船捜しの方は一向に進展が無い。
 7月9、10日と「'94障害者水泳大会」が、東京都障害者総合体育館のプールで開催された。例年だと「東京都身体障害者水泳競技選手権大会」(身体障害者対象)、「はばたけ水泳大会」(知的障害者対象)とに別れていたものを、今年から身体障害も知的障害も「障害者」として、一つの統合された大会でスタートした。
 大会役員や関係者は「やりづらい・・・。」とこぼしていたが、ぼくは良いことだと思う。何故ならば障害者の福祉観は驚くほど自分中心だからだ。例えば盲人や肢体不自由者達は自分らの観点から「生活しやすい社会。」としか考えず、知的障害の子供を持つ親達は将来を心配し、知的障害者中心にしか社会を見ていない。全てが全て「そうだ。」とは言い切れないが、こういった傾向が強いことは確かである。従って同じ障害を持つ者同志しか友達を作れない傾向をいつも感じていた。目の前の問題しかクローズアップして見てないような気がする。
 確かに障害者は「障害」という現実から離れられないが、「障害」と言う名の座布団の上で、あぐらをかいて甘えているのも事実だ。いろいろな人がいて一つの社会だ。福祉問題一つ取ってみても、老人福祉や児童福祉など、山積している問題をマクロ的にグローバルな視野から見て考えてもらいたい。このような意味からも今大会はお互いの障害をオープンにし、理解を深める上からも大いに歓迎すべきであろう。
「やりづらい・・・。」は方法論の問題であって、前向きに善処すれば必ず解決する。
 ツロージョンからもたくさんの会員がこの大会に参加した。少しは金メダルも頂いたが、何よりも失格の多さに驚いた。公平さを増す上でもルールを厳格にするのは良いことだが、同時に水泳指導員として大いに反省しなければならない。ツロージョン最大の弱点を指摘された気がして今後の指導に役立てようと決心した。
 さて伴走船捜しの方は、瀬下さんからの連絡が入った。
「まだ見付かりません。竹内さんも捜してください。」
 昭和62年、屋久島~種子島間横断リレー遠泳で伴走してくれた屋久島の第八昭和丸船長、山本さんにも捜してもらった。しかし駄目・・・。種子島漁協も駄目。遊漁船組合も駄目。駄目・・・。
 紹介から紹介へとだんだん直談判になり、その範囲はどんどん広がった。するとあることに気が付いた。
 その「あること。」とは宮崎県は離島が無いため、航行区域を広く取った船舶が少ないということ。その点、鹿児島県は多くの離島が点在しているため、広範囲な航行区域を持つ船舶が多いということだ。
 時として種子島から打ち上げられる予定のHⅡロケット(キク6号)は、発射が我々の泳ぐ予定とほぼ一致していた。従ってその頃の小型船舶はロケット関係者やマスコミ関係者がほとんど予約を取っていた。見付からないわけだ。
 大分県も捜した。「造船なら。」と長崎県もと捜したが。有名なのは大型船舶だ。見付からない。
 実際、全く良い知らせが無い訳でもない。「いいですよ。」の返事に喜び勇んで船検証をファックスしてもらい、航行区域を調べた。小型船舶検査機構に登録番号を知らせ、臨航でクリア出来るかも調べてもらったが、全て『NO。』だった。
「だったら保安庁には『漁ろう目的だ。』と言ってしまえばいいじゃないか・・・。」
と言う漁師もいた。傾向として漁師はあまり法律を知らない。
「海難の捜索など時折駆り出されるけど、この時は航行区域を出ても保安庁は何も文句は言わねえな。勝手なもんだ・・・。」とぼやく漁師もいた。
「この船はとっくに船検証の期限切れですよ。ただでさえ海に出てはいけない。」と逆に検査機構の係官に注意されたこともあった。
 また全て合法的な船舶が見付からない訳でもない。この場合の問題はお金だ。湯水のように使える財力があるなら話は簡単だが、貧乏ツロージョンには夢のまた夢・・・。
 例えば、沖縄のクルーザーはダイバーを運搬するためのもので全てOKだ。(24時間伴走代、燃料費も含めて約100万円+沖縄~種子島間の燃料代と人件費約50万円)
 昭和61年、沖縄の渡嘉敷島~沖縄本島間横断リレー遠泳で、サメ避けのネットを作った。大きさは長さ5メートル、幅3メートル、深さ2メートル。ちょうどワンボックスカーを一回り大きくした程度のカゴ。この中で泳ぐのだが大き過ぎて漁船では引っ張れない。そこでタグボートを呼んで決行した。これを思い出して、さっそく鹿児島のタグボート会社に聞いてみた。確かにタグなら合法的。(1時間当たり6万5000円×24時間+往復の時間×6万5000円)
 遠泳の前半と後半の二つの地域から伴走船をリレーする。これも合法的。(約50万円×2)
 お金が欲しい・・・。クルーザー、タグ、リレー、他のアイデアも浮んでは「コスト」と言う名の消しゴムに消されていった。人は落ち目になるととんでもないことを真剣に考える。
「おい、今年買ったインフレータブルカヌー(ゴム製のカヤック)を二人で漕いで伴走するか・・・。」と真顔で家内に言った。
 航行区域の法律はあくまでエンジン付の動力船のみであって、ヨットなど帆船や手漕ぎのボートなどは除外される。また航海に必要なGPS(衛生航法装置)、コンパス(羅針盤)、海図など、一応の器械は持っている。これなら合法的でしかもタダ(無料)だ。
「カヌーで伴走すると言ったら、保安部では『カヌーの監視船を付けろ。』と言うだろうな・・・。」
 ツロージョンの会員を始めとする、九州出身の方々にもだいぶご厄介になった。伴走船捜しでそうとう通信費も使った。しかし見付からない。時間の流れだけがばかに早く感じ、そのまま城ヶ島の合宿へと突入していった。ここで船捜しの作業は一時休止である。
 東京に戻るともう8月。そして短期水泳教室に突入。前にも書いたが、短水は実に夏向きな仕事だ。しかし内心船のことが気掛かりで落ち着いてレッスンにも身が入らない。仕方なく途中で家内に交代してもらい、船捜しに全力を傾けた。この頃すでにぼくは小型船舶検査機構鹿児島支部では有名になり、「竹内。」と言えば、「駄目。」とこだまが帰るようにさえ思えた。
 最後の切り札を使った。それは油津海上保安部に伴走船の紹介をしてもらうことだ。まるでライオンの口に手を入れる気分で聞いてみた。すると「宮崎マリン」という名前が出たのでさっそく電話を入れ、ファックスで計画書を送った。
「こんな計画、もっと早く教えてもらわないと困りますよ。」
と宮崎マリンの金子さんは電話向うで困惑気味に言った。
 事情を話して捜してもらったところ、やっと鹿児島から今回の伴走船、汽船「オーシャンブリーズ」(10トン:南九州マリーナ所属)と、宮崎のパイロット田中さん(海航「ブローニ」代表)が見付かった。
 時に8月10日、船捜しに何と三ヶ月。まだまだ大どんでん返しがあるとも知らず、ホッと胸を撫で下ろし、「ようやく一件落着、これからは保安部に聞こう。」などと決意を固めさせていた。

― 黒潮旅泳 ― 14/10.船Ⅰ

 6月(準備)
 油津漁協からの連絡をキリンのように首を長くして待っているのに、「ウン」とも「スー」とも連絡が無い。まるで始めてラブレターを書いて返事を待ち焦がれる思春期の少年のような気持ちだ。シビレを切らしたぼくは油津漁協に電話を入れた。が、石渡参事は忙しいようで捕まらず、川本さんもトライアスロン大会の開催で忙しく捕まらない。いたずらに時間だけが過ぎ去って行った。
「後悔先に立たず。」とはよく言ったもので、この頃はまだ伴走船捜しに苦労するなどと知る由も無かった。今から思い起こせば、市役所からの依頼で石渡参事は空返事をしたものの、決して乗る気では無かったことを薄々感じ取っていたのだから、他の方法を考えておくべきだった。
 ここで少し小型船舶(容積が20トン未満)の法律について少し触れておこう。
 小型船舶はその船籍港を中心に航行出来る範囲が定められており、それは船主が必要な航行区域を申請し、その船舶の機能や安全性を小型船舶検査機構が判定し決定される。当然広めの航行区域を申請すれば検査は厳しくなる。これら航行区域は船舶検査証書(船検書)に記載される。
 航行可能な範囲の限度は漁ろう目的の漁船の場合、陸岸から100海里(1海里:1,852メートル)までだが、同じ漁船でも遊漁など漁ろう目的以外の場合は陸岸から20海里で横幅も限定されて狭くなる。
 これは乗船者が漁師(船員)と旅客の違いと、漁民の生活権を守るために航行区域に差が出る。しかも遊漁船は航行区域が狭い上、安全設備などの厳しい検査を幾つもクリアしなければならない。
 ただ例えば「海航」と言って、造船所から船籍港へ移す場合など、特別な理由によって航行区域を出なければならないとき、検査に合格すれば臨時航行許可書(臨航)が交付される。
 遠泳の伴走は目的が漁ろうではないので我々は旅客扱いになる。従って航行区域は狭いが、臨航でその範囲を広げることが出来る。(陸岸から20海里未満で横幅が広がる。)
 今までもそうやってきた。ところが今回のように距離が、2、300キロとなると条件が厳しい。法律は黒潮の存在など関係が無いのだ。
 さて、今回の遠泳は黒潮(海流)に乗ってしまえば潮流(干満の差によって出来る海水の流れ)の影響など考えなくて良い。ただし種子島は大隅海峡の出入り口付近に当たり、潮流の存在が気になる。出発直後にモタモタしたくない。やはり小潮の引潮時が安定して良い。即ち「8月15日午前4時出発。」が好都合だ。ところがこの日はお盆。
 一般に漁師はお盆に海へ出ることを嫌う。「8月13日から15日までがお盆だ。」と思っていたぼくは、「16日午前5時に出発。」と日時を変更した。ところが下見に行ってみると、今年のお盆は14日から16日までだそうだ。仕方なく、再び「17日午前6時。」に出発日時を変更。これ以上遅らせることは大潮に近付き、遠泳には都合が良くない。妥協出来る限界だ。
 6月中旬が過ぎ、やっと石渡参事が捕まった。
「いやあ、お盆も明けたばかりの頃でしょう、漁師はみんな嫌がっているんですよ。油津遊漁船組合を紹介しますからそこで捜したら・・・。」
「クソーッ、こんな返事をもらうために一ヶ月も待たされたのか・・・。」
と腹が立つ。
「無理ですね。」と、石渡参事ご紹介の遊漁船組合もつれない返事。
 船舶用品を扱っている商事会社、「五洋商事」にぼくの後輩、山下君が務めている。何かにつけ彼はよく手伝ってくれる。
「ああ、山下、また伴走船捜しているんだよ。ウン、漁協にフラれちゃってね・・・。」
「分かりました先輩。ウチの会社に鹿児島出身の奴がいるから、そいつに聞いてみますよ。」
 じきに鹿児島のカクセ工販という会社の瀬下さんから電話が入った。
「出来るだけ捜してみます。」と頼もしい連絡だった。
 話は変わるが、毎年6月の最終土、日に開かれる日本遠泳協議会主催、「チャレンジ24」(24時間水泳大会)で、今年も25、26日と大阪に行ってきた。この大会は「24時間独泳」と「リレー」(6人一チーム、一人1時間泳を4巡する)と、ドーバー泳と同じルールで、泳いだ距離を競う。今年から「6時間泳」と「12時間泳」の独泳が種目として増えた。
 ツロージョンからは藤田が今年で5回目の「24時間独泳」にチャレンジ。記録は過去2回完泳、2回棄権。今年の目標は70キロ、水温が高ければ可能。また元多摩障害者体育館職員の塩上さんが「24時間独泳」に初チャレンジ。
 彼女も最近長距離泳にメキメキ腕を上げている。リレーでは名古屋に住む塩上さんの従妹の塩上さん、ポセイドン代表の村越さん、障害者スポーツには献身的なボランティア活動をしている平林夫妻、そしてシマ(桝林)夫妻の6名。
 成績はちょっと低めの水温で藤田の目標には少し足りない63.7キロ。塩上さんは肩を壊して棄権。それでも「悔しい、来年こそは絶対完泳させる。」と張り切っていた。リレーはひたすらブービーに近い順位。でもそれなりに楽しく泳いだから、いいんじゃないかなあ・・・。

― 黒潮旅泳 ― 14/9.旅(遠泳)について

 昭和48年10月、身体障害者(児)を対象に、遠泳を目標としてツロージョンスイミングクラブが生まれた。その後昭和61年5月、北区に東京都障害者総合体育館が完成した。「とうとう日本にも身近にぼくの理想とする施設が出来たか。」とそれはもう大喜びだった。しかし喜びは期待へと繋がり、期待はここで働く職員へのプレッシャーとなっていった。かなり無理難題を言って困らせた。今ではずいぶん迷惑をかけたと後悔している。職員には職員の立場があり、責務がある。ぼくはそれを無視していた。
 最近この体育館にぼくの後輩が就職した。彼らに恥をかかせる訳にはいかない。手本となるような先輩でなければならない。「あるがままを受入れ、職員には迷惑のかけぬよう、且つ、利用者には愛される努力をしよう。」と心に誓った。
 さてドイツでは日本と同じ敗戦国でありながら、いち早く福祉政策を打ち立てていた。悲惨な戦争によって多くの障害者が生まれたからだ。日本ではなおも「世界に追い付き、追い越せ。」とばかりに経済政策ばかり優先させた気がしなくもない。
 昭和55年、特に障害者水泳を中心に生の福祉政策や社会体育が見たくて、旧西ドイツに半年ほど住んだ。そんな折、日本からはるばる友達の塩田さんがやって来た。二人で一ヶ月間ヨーロッパ旅行をしようというのだ。
 塩田さんはとても歴史好き、中世の色取りが濃く残るドイツにたいそう感心していた。
 例えばぼくの住んでいた街、旧西ドイツ南西部の「フライブルグ」は、あのマリーアントワネットの出発地だそうだ。彼の解説を聞き、「ヘーッ、」とぼくは感心するのみだ。
 ドイツ、スイス、イタリア、オーストリア、フランスへと旅は続き、途中、ぼくは用があってドイツに帰り、彼はパリからロンドンへと旅立った。しかしその間、旅行ガイドをぼくが読み、彼が「ホウ、」と聞き入る。次に彼の歴史解説をぼくが聞き、「なるほど・・・。」と感心する。
 例えばフランスのリヨンで、「十字軍がどうしたこうした・・・。」と、ぼくがガイドブックを読む。すると「昔、子供を戦争に送る『子供十字軍』というのがあってね・・・。」と、彼の解説が始まる。そこでぼくが「フーン。」と感心する。とこんな具合だ。
 もしぼくの一人旅だったらいくらガイドブックを読んでもマリーアントワネットも子供十字軍も、昔学校で習ったことを記憶しているだけで、それが何だったか理解はしていない。また塩田さんの一人旅でもきっとガイドブックなど読まなかっただろう。何故ならば「瞬きする時間さえもったいない・・・。」と言っていたくらいだから・・・。
 このようにヨーロッパは歴史、芸術など好きな者には堪らないところらしい。ところがぼくのような歴史ノータリン人間は、例えばヨーロッパの城なら「西洋風」、日本なら「和風」にしか見えない。
 昭和49年5月、ジブラルタル海峡横断泳でぼくはスペインに行った。そのときに建築デザインの勉強をしている日本人学生に会ったが、ゴシックやバロック、ロココの建築美なんて聞いてみなけりゃ分からない。ぼくは芸術オンチでもある。
 芸術はまだしも、歴史の方は最近になってやっと大航海時代に興味が出始めた。コロンブスやマゼランなど、海のパイオニア達がどのような機材でどのような航海をしたか、遠泳の参考になるところがたくさんあるからで、これも遠泳の賜物だ。
 二人のヨーロッパ珍道中は大成功だった。
 けっこう藤田も歴史好きで、去年高知に行った時、坂本竜馬やジョン万次郎の話は面白かった。
 このように旅先の歴史、伝統、文化、芸術など知っておくと旅がいっそう深くなる。しかしこれらはあまりぼくの得意な旅とは言えない。どちらかと言えば自然と触れ合う、例えば遠泳とかスキーというような旅を得意とする。
 だが今回のような計画で黒潮について調べると、日本人のルーツは「黒潮に乗って南方からやって来た説」が出てくる。その他「朝鮮半島から入って来た説」、「北海道のさらに北方から入って来た説」などがある。どれも本当だろうが、歌の「椰子の実」のように「黒潮説」の方がロマンがあって楽しい。結局自然と人間との関わり合いと言うか、歴史や文化は自然と切っても切り放せない関係にあることが良く分かる。従って歴史はこれからぼくが勉強しなければならないテーマだろう。
 他に旅の楽しみは日常生活から離れ、まったく知らない世界を経験するのが面白い。我々の水泳指導はサービス業だから第三次産業。自分の職種から離れた第一次産業の業種は、農業、漁業、林業など。この海や山など自然の時間に人間が合わせた生活が新鮮に感ずる。
 旅の手段として電車、飛行機、船などがあるが、移動目的の旅もある。サイクリング、登山、ドライブ、ハイキングなどだ。
 遠泳もこの中の一つと言って良いだろう。ただ一人では絶対に不可能だ。伴走船や現地の人の協力など、生まれも育ちもまったく違う者同志が「泳ぐ」という単純な行為のために、一丸となれるところに遠泳の素晴らしさがある。そこには立場が違っても、自分の養った知識や経験、技術など、存分に能力を発揮する場面がある。それが楽しくてぼくは遠泳を続ける。
 20年以上、40回以上の遠泳を手懸けると、遠泳じたい特別なものではなくなるが、一つ一つに違った味わいがありハーモニーがある。それを求めてまた遠泳を続ける。「旅」としては最も鈍足な手段だが、最も贅沢とも言える。
 こんな遠泳の素晴らしさをみんなに知ってもらいたいと、昔、日本遠泳委員会のお手伝いをさせていただいた。しかし委員会も今では尻切れトンボ状態だ。本も書いた。だが読むのは一部のマニアだけ・・・。マスコミの取り上げ方も社会面であってスポーツ欄ではない。遠泳がスポーツとして認知されないのも気にくわなかった・・・。
 今でも時折「委員会を復活させよう。」とか、他の団体からのお声がけもある。でもぼくは半ば開き直った状態だ。「12時間大会」や「城ヶ島の大会」を、東京障害者水泳協会や多くの方々に迷惑をかけながらも細々とやっている。何も無理して知ってもらわなくても良い。
 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」ではないが、人から「デクノボー、」と呼ばれても、人畜無害で欲をかかない。ソンナ者ニ私ハナリタイ。

― 黒潮旅泳 ― 14/8.準備

 去年の8月、「ツロージョン誕生30周年記念」で、四国の足摺岬から室戸岬まで、黒潮に乗って120キロを藤田が泳いだ。
 計画では24時間から30時間かかると考えていたが、ことのほか速い黒潮に乗れて、「15時間50分」という思わぬ好記録を生んだ。それでも室戸岬に向かうのにかなり苦労したから、単純に120キロのみを泳ぐならもっと速かったろう。
 この時の伴走船パイロット、土佐清水漁協の安岡さんが
「24時間あれば潮ノ岬(足摺岬から約250キロ)まで行くだろう。」
と言ったのが、この遠泳で気を良くしたぼくの今計画発端の引き金だった。
 この間には紀伊水道の出入口があり、大型船舶の往来が激しく危険なため、そのままスタート地点を黒潮上流に当る種子島まで引き上げたのが今回の計画だ。
「うまく乗れれば200キロ以上、いいや300キロも夢じゃない。もしもそのまま四国の足摺岬まで泳いじゃったら・・・、こいつは面白い。」
 夢は小さなぼくのハートに溢れんばかりになった。それはまさに川下りのようなものだが・・・。
 こんな動機で「椰子の実遠泳24」の計画は出来上がった。
 5月(下見)。
 今年の水不足を最初に占ったのは、ぼくの釣りの師匠である鮨屋の藤山さんと、山好きで群馬県川場村の住人になってしまった竹下さんだ。天気予報では「今年も冷夏だ。」と言っているし、ぼくには去年のような「米騒動」の方が心配だった。
 5月15日日曜日、ぼくは今計画の下見に行くことにした。今日の天気予報で「東京は雨。」と言っていたのに、ほとんど霧雨だったので傘はバッグの底にしまって羽田に出かけた。
「窓側の席をお願いします。」
 人知れず高所恐怖症を治そうと思っていたぼくは、チェックインカウンターで勇気を振ってそう言ったのだ。
 飛行機の離陸は雨の日が良い。今まで縦に流れていた機窓の雨水は、スピードが増すに連れ斜めから真横になり、水滴を振り切った頃、グッと機首を上げ地面から飛び立った。
 じきに雨雲の中に吸い込まれと、どんどん上昇するに連れ、雲の中の明るさは増していった。そしてまるで大海原に浮上する潜水艦のように、機は大雲海を浮上した。窓の下には雲、くも、クモ、Kumo。その上はどこまでも青い空に輝く太陽。「ウワーッ、」と高所恐怖症も忘れて見入った。間も無く実に規則正しく並んでいる雲の切れ間が見え始め、「ああ、ここに前線があるのだな。」とすぐに分かった。大気の流れはすごい。
 感動覚めやらぬうちに機は宮崎空港へ。ぼくの前を歩いていた二人連れのおばちゃんらは、
「だいたい東京と宮崎は天気が逆転していて、東京が雨だと宮崎は晴れ、東京が晴れていると宮崎は雨だよ。」
と話していた。日本付近を通過する移動性の高気圧や低気圧は、その半径が数百キロだから「まんざらでたらめでもないな・・・。」なんて、妙なところに感心しながら降り立った。
 レンタカーで宮崎市に向かう。何故ならば「宮崎県と言えばフェニックス。」という以外、右も左も分からない。高校時代、九州一周の修学旅行で宮崎県も巡ったはずなのに、観光バスの中では夜中に騒ぐ魂胆があるため寝ているばかりだった。
 「市内に行けば何かがある。」ぼくの動物的勘に従って走っていると、始めの目的地である「日向」の案内標識が出たのでそちらにハンドルを切った。「お、情報も入手しなけりゃ・・・、」と、途中にあった釣具屋に入り、宮崎(油津港)の潮汐表(潮時表)をもらう。そして夕方、無事ホテル「日向ロジャース」に到着。
 今回の地元協力者、川本さんに電話を入れる。九州トライアスロン協会(九トラ)理事の川本さん(宮崎市在住)は今から去ること4年前、対馬から釜山まで横断リレー遠泳大会を行なった。4チームが参加し、残念ながら全チームとも完泳出来なかったが、九トラとツロージョンは釜山まで観光に行った。この時川本さんも同行している。以来お付き合いをさせて戴いている熊本に住む九トラ会長、加賀谷さんのご推薦だ。
 この川本さんの他、東京と大阪に電話を入れ、夕食がてら夜の日向の散策に出かけた。市役所、警察署、消防署を確認し、駅で観光情報を入手した。これから地元の方と話すのに、その土地の名所、旧跡、歴史、伝統、風土、文化、芸能、物産など、話のきっかけに都合が良い。
 翌16日朝、細島海上保安署、海運会社など関係各所を廻った。日向漁協には「無線設備が無い。」とのこと。日向に近い無線局は川南漁協と聞き川南へ。そんなこんなで少し遅れたことを、宮崎港のフェリー待合所で落ち合う約束だった川本さんに連絡を入れた。
 昼過ぎ宮崎港で海運会社に届け、相変わらず元気な川本さんと合って今回の計画を話した。
「黒潮かぁ・・・、こいつは面白い。」
と多いに乗る気になって、ぼくを県庁やらラジオの放送局やら関係各所以外にもあっちこっち連れて行ってくれた。川本さんはトライアスロン大会を開催するに当って相当苦労していると見えて、行くところ行くところみんな顔だ。
 そう言えばぼくにも覚えがある。ツロージョントライアスロン大会を開こうと、東京ドリームアイランドパークとその中にあるスポーツセンターにお願いに行ったが、管理担当者は「駄目。」の一点張りで話にならない。結局は無届けで数回開催したが、注意を受けたことも無い。しかし後味が悪いのでやめた。
 さて予定ではそのまま日南市油津まで行くはずだったが時間も無く、また川本さんの勧めもあって「宮崎メゾンデューホテル」に泊まることにした。夜、4年振りの再会の祝杯をご馳走になり、日南市も付き合ってくれる約束をした。
 そう言えば昔々、まだぼくの両親が若い頃、新婚旅行は熱海が相場だったそうだ。その後は日南がメッカになり、今ではハワイが主流だ。まあ年々豪華になりそのうち「月までハネムーン。」なんて時代も遠い将来ではない気がするが、どのみち行き先に海が多いのは、「二人の門出」が互いに帆となり舵となる「船出」のイメージがあるからだろう。海の凪や時化(しけ)は、これから歩む二人の人生にオーバーラップするところが多い。ならば「遠泳もおめでたい行為のひとつなのかも知れない。」今も美しい日南海岸を走りながら、おめでたいぼくはそう思っていた。
 驚いたことに日南市でも川本さんは顔だ。市役所では、
「出発と到着にセレモニーをやろう。そうだ、成功したらミス日南を呼んで花束贈呈に投げキッスなんか良いだろう。」
と多いに盛り上がった。
 県下一を誇る油津漁協から伴走船を借りる予定だったので、市役所から漁協に電話を入れてもらい、その後漁協の石渡参事に会った。借りたい伴走船の条件を言うと石渡さんは、
「分かりました。」
と返事をした。
 良かった、良かった。一番心配していた船がこれで大丈夫だと信じた。
 油津海上保安部や関係各所を廻り、日南駅で川本さんと別れ、ぼくは鹿児島県志布志に行き海運会社に届けた。
 鹿児島市内へはクルマで錦江湾を廻ると時間が掛かるので、垂水からカーフェリーでショートカット。それでも時間は午後4時を過ぎ、急いで第十管区海上保安本部と鹿児島海上保安部を廻った。そして鹿児島空港近くの「ホテルニューポート」に着くと、もう空は夕暮れに染まっていた。
 18日、朝一の飛行機で種子島へ。小さな飛行機で心配したが、もちろん窓側の席に座った。
 雨天の離陸も素敵だが、晴天の離陸はもっと素敵だ。何故なら青い錦江湾に浮ぶ緑の桜島が、デッデーンと眼前にそびえているからだ。
 種子島空港からレンタカーで関係各所を廻り、出発地点の浦田港を見ると即空港に戻った。次は大阪行きの機上の人となる。種子島滞在時間約5時間。
 種子島行きの飛行機も小さかったが、大阪行きはもっと小さい。横一列が三名(通路を挟み左1列、右2列)、合計36名乗りのまるでマイクロバスのようなサーブ社製の飛行機だ。ハワイで10名乗りのセスナに乗ったが、ジェット旅客機ではこれが一番小さい。
 左窓側の席に座ると、驚いたことにこの飛行機は黒潮上空を飛んで行く。もう地図帳と窓の外に釘付け。眼下を巡る景色が、「全く地図通り」という当り前のことにものすごーく感激した。
 ことに足摺岬上空を通過している時は思ったものだ。
「ああ、去年はここから泳いだんだ・・・。藤田、山下にも見せてあげたいなあ・・・。」
 室戸岬まで泳げば15時間以上かかるのに、飛行機では数分とさすがに速い。
 幸運にも今回の旅で飛行機の謎がひとつ解けた。例えば種子島から大阪まで飛ぶとすると、まっすぐ大阪には向かわず、まずは足摺岬にある飛行誘導施設(ナビゲーションエイド)まで飛び、そこから旋回して行くのだ。空にも航路がある。台風や低気圧など乱気流のある場所はそれを迂回して行くのは知っていた。が、外国までの長距離飛行で、途中、悪天でもないのに大きく旋回して行くのは「航路だったからだ。」という新しい発見だった。
 機は今年開港した関西国際空港上空を飛び(開港前に上空から見物)、伊丹空港へ着陸。
 大阪では京橋の居酒屋「タコイモナンキン」で、「チャレンジ24大会」の会議に出席。今年の大会について話を聞いているうち、協議会役員さんの熱心さと情熱に感動した。また「椰子の実遠泳24」の計画も非常に興味深く聞き入れてくださって、この前向きな姿勢が素晴らしい大会作りに一役買っているのだと分かった。
 後々、大会終了後に苦労話を聞かせてもらったが、我々が開催している「12時間遠泳大会」に貴重な参考となった。
 その日は京橋のホテルに泊まり、翌19日朝一の飛行機で高知県へ。レンタカーで1年振りに土佐清水に向かい、漁協の前山さんやら海上保安署やら関係各所を廻って空港へユーターン。高知滞在時間約9時間。
 一応現地の受入れ態勢を全てクリアにして羽田に戻った。作った50部の計画書は全部完売。まったく忙しい下見だった。
 黒潮に乗れば24時間で2、300キロ泳げるかも知れないが、その距離の分だけ苦労が増えた。
 ちなみに東京に戻って、「もう高いところでも大丈夫。」と勇んでビルの屋上に上がったが、足がすくんでとてもじゃないが下など見られなかった。不思議。

― 黒潮旅泳 ― 14/7.遠泳入門

 海峡横断など少し大袈裟な遠泳を行なうには、次の三つのステップから進めていく。

 第一ステップ。計画書作りである。
 このためには泳者の能力を高めるトレーニングを充分に行なうこと。そして泳者の能力に合った海域の選択である。泳者の能力が高まるに連れ、泳ぐ海域の選択肢が増し、逆に海域が決まっていればその環境に合わせたトレーニングが必要になってくる。
 泳者のトレーニングは科学的に、且つデータを出すこと。同時に泳ぐ海域のデータを入手し、双方の特徴を考慮した上で、いつ、どこで、誰が、何を、どうする、といったシミュレーションを制作する。また問題点を探っておく。
 次にこのシミュレーションを基に具体的な遠泳の方法と安全対策を明確に列記する。
 例えば、鮫など泳者に危害を及ぼす危険性のある魚類が現れた場合の対応、大型小型を問わず他の船舶が接近して来た場合の対応、泳者を含むスタッフの病気(船酔いを含む)やケガの対応、夜間の航行がある場合の対応、陸上との連絡手段の確保、遠泳の中止、休止、コースの変更等の基準、監視者などスタッフの役割分担、泳者の栄養補給及びスタッフの飲食料の確保、雨天及び防寒用品の確保、その他問題点の対応等きちんと整理する。
 こういったシミュレーションや安全対策は裏付けが明確で、どんな相手に説得するにも充分満足出来るものでなければならない。従って計画書には、動機及び目的、具体的な方法(泳者、気象・海象などデータも含む)、安全対策、乗船名簿、連絡網等、簡潔明瞭に記載されていること。

 次に第二ステップ。必要な伴走(監視及び水先案内)船の確保、関係各所へ計画書の届け、許可申請など。
 伴走船は泳ぐ目的に充分合ったもので、且つ合法的なものでなければならない。つまり大き過ぎても小さ過ぎても伴走には不向きである。また船舶には法律で航海区域が定められており、泳ぐ海域がその区域の内でなければならない。
 経験上から言うと、大きさが5トンから10トン程度の小型船舶がお勧めで、パイロットは地元の漁師が良いと思われる。その方が現場海域にも詳しいからだ。また陸上との連絡を確保する上で、漁業無線の利用も考えねばならないから、地元漁業協同組合に依頼して探してもらうのが一案であろう。
 関係各所、つまり管轄する海上保安部、警察署、消防署(救急)、定期航路を持つ海運会社、漁協、マリーナなどに届けておく。場合によっては港湾管理者(港内とその付近等)などの許可が必要な事もある。ただ病院の場合、救急隊が選択するので届けても意味をなさない場合が多い。従って届けた方が良いと思う者は届ければいいだろう。
 海上保安部は立場上、「指導」という名目でいろいろと重箱の角を突くような嫌がらせ(?)をしてくることが多々ある。がしかしそれは出来る範囲で対応することにして、全てが総て指導通りに出来ない場合がある。この無理難題には「出来ません。」とはっきり言おう。

 最後に第三ステップ。協力者を得る。
 地元の役所、関係するであろう個人、団体、マスコミ等に届けて必要な協力者を求める。
 以前に同じ海域を泳ぐなど、同等の企画を行なった個人若しくは団体がいたら、そこからの情報を得よう。それは生きた情報だ。それが見付からなかったら、ツロージョンに聞け。お金は無いが、竹内はニコニコしながら協力するだろう。
 例えば中々首を縦に振らない海上保安部も、鶴の一声ではないが有力者の一声で話がスーッと通ってしまうことがある。思わぬ余禄が手に入ることさえある。ただし協力者が現れても頼ってはいけない。あくまでも補助程度に留め、「自分でやるぞ。」という心構えが必要不可欠だ。時として協力者やマスコミに振り回される危険性もあるので、充分注意しなければならない。そして、大きな声で「NO。」と言える勇気も必要なのだ。
 一つのことを成し遂げるのにたくさん協力者が必要だ。ただ協力者はあなたと同じ感動を味わいたいと思っている。それに応えるのは「前向きの努力のみ。」と知ること。

 ここまで終えればその遠泳の「90パーセントは完了。」と言って過言ではない。あとは実際のトライに望むばかりだ。時として遠泳は時の運。結果の善し悪しや思わぬ方向へ行ってしまうことも、「神のみぞ知る。」というものだ。しかしこれが遠泳。大自然の中へハダカ一貫で飛び込んで、全て計画通りになったらとうの昔にぼくは遠泳をやめていた。何が起るか分からないところに期待、不安のハラハラ、ドキドキ、ワクワクがある。
 遠泳の出発とは、終着駅のあやふやな列車の見込み発車みたいなもの。
『百里歩む者は、九十九里をもって半ばとす。』
 100パーセントしか信用出来ない者は遠泳などおやめなさい。
成功への90から99パーセントの間に遠泳の醍醐味がある。

― 黒潮旅泳 ― 14/6.夏向きの仕事(熱帯夜安眠法)

 今年の夏は取り分け暑かった。猛暑を通り越し、酷暑の中でもサラリーマン諸氏はネクタイ、背広で仕事にがんばっている。この額に汗して働いている日本の戦士を横目に、肩までどっぷり水に漬かり、涼しげな顔して威張っている仕事がある。このいたって夏向きな涼風溢れる職業とは、我々水泳指導員である。サラリーマン諸氏には申し訳ないが、今年ほど「水泳指導員で良かった。」と思ったことはない。
 8月1日から12日まで、短期水泳教室(短水)を5本行なった。
 暑さの中で水に漬かっていられる昼間は良いのだが、熱帯夜がたまらない。扇風機こそ廻っていても、「今年こそ本気でエアコンを買おう。」と思った年もない。
 だが一般に「夏」と呼ばれる6、7、8月のうち、3分の1の一ヶ月は我々夫婦、家に居ない。しかも一番の「猛暑」と言われる梅雨明けの7月20日頃から、入盆の8月13日頃までの約半分は家から離れている。従って一般人の約2分の1は外の生活になっているし、昼間は肩まで水に漬かっているから少し我慢をしていれば、季節の方がそのうち涼しくなってくれる。
 しかし40度近くまで上がる気温に眠れぬ熱帯夜。そして酷暑。やはり「エアコンが欲しい。」と思った。
 そんな時、天の声が聞こえた。
「エアコンの効いた部屋からは、外に出なくなってしまう・・・。」
と言う利用者のアドバイスだ。性格上、じっとしたデスクワークなど苦手なぼくにはやはり「我慢しよう。」と決断を下すのに充分な助言だった。多分我が家は一生エアコンを買わないだろう。
 夏休みに子供が学校のプールで水泳を習ってくる。そこで短水は各学校で行なわれる水泳能力検定級を一つでも上げることを目標にした。しかし学校の水泳教室で上手になる子供もいるが、中には必ず変な癖をつけられてしまう子供もいる。
 熱帯夜に「学校教育の水泳の役割とは何か、ひいては我々社会体育指導員が何をしなければならないか、」などと考えると、いつの間にか熟睡しているのだ。これがぼくの熱帯夜安眠法だ。

― 黒潮旅泳 ― 14/5.城ヶ島一周リレー遠泳大会

 7月22日からの合宿は海慣れが目的で、25日からの合宿は城ヶ島一周リレー遠泳が目的だ。28日にトライ。天野貴司君が独泳するなど、前年比で参加選手はかなりレベルアップ出来たと言えよう。これなら来年はもう少し本格的な海峡横断にチャレンジしても良いかも知れない。
 さて、翌29日からは城ヶ島一周遠泳大会参加目的の合宿である。大会は31日日曜日。少しでも良い成績を残したいと思うのは、親心ならぬコーチ心だろう。とは言っても29日からの参加はゼロで、磐田達也君と高田英世君の二名が前回からの居残り合宿となった。
 泳者の心配は無かったが、天気の方が心配だ。台風が近付きつつあったからだ。
 大会当日の朝、風が強く「天気晴朗ナレド波高シ。」といった具合だ。海を見に行ったとき、早朝から到着していたポセイドンスイミングクラブ代表の村越さんに、「今日は出来ないかも知れませんね。」と話した。
「船が出ないなら仕方ないけど、出来るならやりたいね。みんなその為にやって来たんだ・・・。」と村越さん。
「じゃあ、船頭さんに聞いてきます。」
「ああ、ぼくもみんなに『出来ないかも知れない。』と話してくるよ。」
 船頭の菊池さんに会いに行く前に、菊池さんの方からオートバイでやって来た。
「どうするかね。この風じゃ一周は無理だな・・・。」
「そうですね。どこなら出来ますか。」
「去年と同じ、島の裏側だけの一往復なら出来るよ。」
「そうですか。ではそれでお願いします。」
 簡単な打合せをして、それを伝えに村越さんのところへ行った。
 残念ながら去年同様、今年も城ヶ島を一周することが出来なかった。それでも大会が終ると、毎年ポセイドンメンバーの有志達が材料を集め、バーベキューパーティを開いてくれる。
 泳ぎ終ったお腹には、このバーベキューとビールが最高のご馳走だ。自宅では飲んでも「一口、口にする程度。」と言われていた高田君が、ビールを三缶も飲んだ。
 多いに盛り上がってこの大会を終えた。
 ポセイドンバーベキュー制作班の皆さんご苦労様でした。どうもありがとう。来年もまたがんばりましょう。楽しみにしています。そして、もっとたくさんの方の参加をお待ちしています。

「船長、船長、面白い情報を入手しました。ほら。これです。『椰子の実遠泳24』、あの竹内という先生が持っていた計画書です。」
「ほう、なになに種子島から黒潮に乗って24時間泳ぎ続けたら、何処まで泳げるか・・・。なにっ、200キロから300キロも泳げるのか・・・。」
「船長、あの藤田という先生が泳ぐみたいですよ。面白そうだから着いて行きましょう。」

― 黒潮旅泳 ― 14/4.少年時代真只中

 生まれてからこのかた13年、ぼくにはどうしても分からないことが一つある。それはぼく以外の人にはどうも超能力があるらしく、どこに何があるかみんな知っているんだ。
 例えばぼくの大好物のラーメンを食べる時だって、どんぶりや箸がどこにあるか手で探ってみないと分からないし、麺だってどのくらいどんぶりに入っているか指で探らないと分からない。ところがぼく以外の人は触らなくとも分かっちゃうんだ。
 でも今のぼくは平気さ。だって周りの人が「右」とか「左」と言うから、その通りに手を出せば必ずどんぶりや箸に手が届くんだ。だいいち食べ物には匂いがあるからね。ぼくの鋭い触覚と臭覚でほとんど何だか分かっちゃうよ。
 小さな頃から屋外が大好きなぼくを、お母さんはあっちこっちに連れて行ってくれたんだ。そこでいろいろなものを触ってみる。このあいだ電車に乗った時、若い女性の「お尻」というやつを触ってみたんだ。そしたら「キャーッ、」て叫んでそりゃもう大騒ぎ。お母さんは「すいません、すいません、」って謝っていたけど、ぼくは平気。
 公園に行くと楽しい遊び道具がいっぱいあってそりゃ面白く、ぼくの天下だよ。「どうしてこんな楽しい所に他の子供がいないのかなあ・・・、」と思っていたら、どうも「夜」と言う時間に子供は遊ばないらしい。不思議だなあ・・・。
 家の駐車場でお母さんはぼくにローラースケートを履かせたんだ。きっといろいろな遊びの世界を知らせようとしたんだね。始めの頃、ぼくにとって迷惑だった。だって立とうと思っても足が滑って思うように立てないんだ。ところがぼくの運動神経でなんとか乗りこなせるようになった。するとこれが楽しい。
 ぼくの家は新宿で自動車がたくさん走っている。よその人が「道路で遊ぶのは危ない。」と言うけれど、「事故の時はそれがあなたの運命。」とお母さんはあまり気にしてないようだ。
 お母さんから「ここから先は行っちゃ駄目よ。」と言われているところがあって、それはどうも「交差点」というところらしいけど、ぼくにはそこが音とか空気とか道路の感じで分かっちゃう。だから迷子になったことなんかないよ。
 家にいるときの遊び場は何といってもお風呂さ。温いお湯の中で潜ったりすると、プカッと浮んでそりゃ楽しい。二時間でも三時間でも、お母さんに叱られるまで遊んでいるんだ。
 そんなことを見ていたお母さんが、ある日ぼくをプールに連れて行ったんだ。たまげたね。だってお風呂よりも断然大きいし、深いんだ。それがこのツロージョンスイミングクラブに入るきっかけ。
 ここの竹内先生ってのがめっぽう恐い。ぼくが疲れて休んでいると「大輔っ、」て怒鳴る。ほんとにブルッちゃうから・・・。でもおかげで今は泳げるようになったよ。1,000メートルや1時間くらい泳ぎ続けるのはちょろいもんさ。
 お母さんは竹内先生がアイススケートも教えていると知って、ぼくをスケートリンクに連れて行った。スケート場の地面は氷でね、ローラースケートよりも滑るんだ。そこを竹内先生がぼくの手をとって飛ばす。それも気違いみたいにね。カラダ中の全神経がピリピリと緊張しているのがよく分かる。それでも頬に当たり風を切る感覚がたまらなく良い。風になったような気分だ。
 でもね、この気違いじみたスピードはそう長く続かない。先生の息遣いが荒くなってきたら終り。しばらく休まないとまたやってくれない。もちろん一人でも滑るさ。先生に「右」、「左」と言ってもらって滑るんだけど、あまりスピード感は無いな・・・。
 お母さんは先生がスキーもすると知った途端、ぼくをツロージョンスキー合宿に連れて行った。ビックリしたよ。だって足にすごーく重くて長いものを着けるんだ。「スキー」って言う板で、思うように動かない・・・。しかも手には「ストック」という杖を持つ。
 時折ぼくは白杖を持って街中を歩かされるけど、あれはあまり好きじゃないな・・・。だって直に触れないんだもの・・・。スキーのときも始めは手袋とかストックが嫌で、脱いで雪に触ってみた。そしたら冷たいのなんのって・・・、やっぱり手袋やストックはしていた方が良い。
 スキー場では竹内先生がいきなりぼくをリフトに乗せたんだ。あのリフトは楽しい。「カタン、カタン、」と時々揺れるけど、それがたまらなく良い。リフトから降りるとスキーってやつは坂の下の方に滑ってっちゃう。すると先生がまたあの恐ろしい大声で「足を広げろっ、」と怒鳴る。
 始めのほうは恐々と滑っていたけど、スケートで鍛えられたぼくのバランス感覚はそれほどヤワじゃない。じきに慣れてしまうと、風を切り頬に伝わる爽快感がたまらない。すぐに右に左にターンを覚え、先生の声の方へ滑って行けばめっぽう楽しい。
 一度だけ山頂から下るコースの途中で、転落予防の網を突き破って先生と崖から落ちたことがある。その時お母さんは崖の上でゲラゲラ大笑いをしながらカメラのシャッターを切っていた。あのハプニングも今では楽しい思い出さ。
 今回は竹内先生が、「今度城ヶ島に連れて行くぞ。」と言ってやって来た。
 海ってところは面白い。波があってさ。水が上がったり下がったりするんだ。そのたびにカラダも上がったり下がったり・・・。
「こいつは面白い。」と楽しんでいると、「大輔、行くぞっ。」って竹内先生の声がしてさ。泳ぎながら着いて行くともう足が立たないんだ。驚いちゃうよ。あとは必死に先生の声の方へ泳いで行くだけなんだけど、いくらがんばって泳いでも壁が無い。プールならいい加減泳げば壁にたどり着くんだけど、海は泳げど泳げど壁が無い。
 けどね、たぶん先生はまだ気付いてないと思うけど、最近海の秘密を知ったんだ。それはね、「ザザーッ、ザザーッ、」て波の音の方に泳いで行くと、立てるようになるんだ。先生にはナイショだよ。ヘッ、ヘッ、ヘッ、ヘッ、ヘッ・・・。
 先生は「城ヶ島を泳いで一周するぞ。」とか言っているけど、まあ適当に付き合って、あとの楽しみは何と言っても船に乗ることさ。伴走船ってやつなんだけど、ユラユラ揺れて自動車や電車と違う揺れが楽しめる。
 泳ぐと海水はしょっぱい。けど伴走船に上がると山下先生がジュースを飲ませてくれるんだ。今年は天野貴司君と藤田先生が一緒に泳いでくれて、なんか勇気が湧いてきちゃったよな。
 とにかく好奇心旺盛なぼくは、まだ知らない世界を多いに触りまくりたいと思っている。
 お父さんとお母さんはこのぼくの好奇心の強さをちゃんと知っていてくれて、最近富士山に程近い上九一色村というところに小さな家を建ててくれた。週末になるとその家へ行って、大好きな散歩を楽しむんだ。もちろん一人で歩くのさ。その方がいろいろなことに出会って面白いよ。お父さんもお母さんも「ここなら交通事故は無い。」と安心している。
 風のささやきや陽の香りを楽しみながら、迷子になんかならないよ。
 これからも好奇心の欲求を満たすまで、どこまでも歩いて、泳いで、滑って行くつもりさ。
 お父さん、お母さん、どうもありがとう。これからもよろしくお願いします。
 最後にぼくが浜を散歩しているとき、「大ちゃん右、」とか「大ちゃん止まれ、」と教えてくれたツロージョンの仲間達、城ヶ島まで連れて行ってくれた藤田先生、いつもおいしい御飯を作ってくれた山下先生、そしていつも偉そうにしている竹内先生には少し、(アハハハ・・・)、みんなにはたくさん感謝しています。ありがとう。
 それからみんな、上九一色村の家は小さいけれどいつでも歓迎さ。その代りぼくにいろんなものを触らせてくれよ。出来るだけステキなやつが良い・・・。
ちょっとワガママかな・・・。それじゃみんな、よろしくな。バイバイ。

― 黒潮旅泳 ― 14/3.夏の日の思い出

 7月25日、昨日までたくさん子供がいたのに、今日はぼくと大ちゃんと竹内先生だけになってしまった。二泊三日のお泊まり合宿と、三泊四日の城ヶ島一周リレー遠泳合宿を続けて行なうので、ぼくは合計六泊七日の合宿になる。城ヶ島一周合宿は、今日お姉ちゃんと高田君と言う大人の人を藤田先生が連れて来る。明日は達也君もやって来るから少しは賑やかになると思うが、大ちゃんは眼が見えないし、あまり遊び相手にもならないので「つまらない。」と思っていた。
 朝ごはんも終って、竹内先生がその後片付けも終った頃、年の頃なら60歳くらいの奇怪なおじさんがニコニコしながらやって来た。その出で立ちたるや大きめの麦藁帽に地下足袋、スキーのときにはくような紺色のタイツ(ももひき)に毛糸の腹巻、それに白い長袖のシャツ。手には今迄見たこともない水中眼鏡と買物カゴ・・・。
 竹内先生が「こんにちは。」と挨拶すると、奇怪なおじさんは「やあ。」と言って片手を上げた。
「悪いが少し休ませてもらえるかい・・・。」
「どうぞ、どうぞ。」
「そうかい、悪いな・・・。テングサ採りに来たんだよ。」
「へー・・・。」
「悪いな、少しバターかなんかあるかい。」
「バターはありませんが、サラダ油ならありますよ。」
「ほう、そうかい。そりゃそっちの方が好都合だ。少しもらえるかい。」
「ええ、いいですよ。」
と先生はサラダ油を出した。
「悪いな、ほんの少しでいいんだ。いやな、この眼鏡のな、ここんとこのな、ゴムが滑らなくなっちゃってな・・・。」
と言っておじさんは、その奇妙な水中眼鏡のゴムチューブみたいな袋の口にサラダ油を垂らした。
 よく見るとその水中眼鏡は全部金属だ。
「ぼくらの持っている水中眼鏡はプラスチック製。顔に当る部分はゴムでできていて、痛くならないようになっているけど、あれじゃ痛かろうに・・・。だいいち水が入っちゃう・・・。」と思った。
「そこのぼうずは何年生だい。」
とおじさんはぼくの方を向いて訪ねた。
「五年。」
と答えると、
「ほう、そうかい。俺んとこの孫と体格がそっくりでな、俺んとこの孫もこんな丸っこい体格でたぶん同じくらいの年だろう。ところでぼうずは何年生だい。」
とまた聞いた。
「五年生。」
と少し大きい声で答えると、
「五年生かい。それじゃ俺んとこの孫より大きいわ。俺んとこの孫は三年生だからな。孫にもこのあいだテングサ採りを教えてやってな。まあ、ちょっとは採れるようになったよ。どうだ、お前にも教えてやろう。おじさんといっしょに潜りに行かないか。」
「えー、一人じゃ嫌だな・・・。」と思っていたら、
「おい、いいチャンスじゃないか、習って来い。」
と竹内先生が言った。
  おじさんは、
「アワビやサザエの採り方を教えてやってもいいんだが、今は浅いところに居ないだろう。2、30メートル潜れば採れないこともないが、小学生の子供にはちょっと無理だ。まあいたら採ってこよう。」
 おじさんの水中眼鏡の手入れを見ていた先生が訪ねた。
「それで潜って顔が痛くなりませんか。」
「このゴムの袋はいろんな大きさがあってな、深く潜るときは大きなやつを着けて行くんだ。すると水圧で先にゴムの袋が潰れてなぁ、眼鏡の中に空気が入ってくるんだ。だから痛くない。
 静岡に水中眼鏡作りの名人が居てな。こいつは昭和32年に俺の顔に合わせて、その人に二つこしらえてもらったんだ。ひとつは今ガラスが割れて直さなければ使えんが、もひとつのこいつはまだまだ使えるよ。当時ひとつ3千円したから、今なら3万円くらいだろう。
 アクアラングは別だが、素潜りにはこいつが一番だよ。」
 値段より、40年近くも使っている古さの方にぼくは驚いた。
「おやぁ、そろそろ雨が降ってくるぞぉ。いいかいぼうず、あっちへ雲が流れて行くだろう。こっちからは下まで暗い雲がやって来るな。あの雲は雨を降らせているスコールだ。間も無くここにも雨が降る。
 さて、じゃ潜ってくるか。潜っても雨に打たれても、濡れるのは同じだからな。おじさんが潜ってきたらテングサ採り教えてやるからな。」
と言って、買物カゴと麦藁帽を残し、来た時のスタイルで、腹巻もしたまま潜りに行った。
 おじさんの言った通り、30分くらい経つと雨音はポツ、ポツ、ポツ、ポツ、から次第にザーッと変わって大雨が降ってきた。先生は外に出ている物を忙しそうにタープの下に入れた。
 タープとは日除けのシートのこと。そこに雨水が溜まると、先生は下から腕で水溜りのところをぐっと持ち上げ、水を外に零した。
 キャンプ地に風呂は無い。つまりぼくは城ヶ島に来てから入浴をしていない。もう合宿も四日目、そろそろカラダがベタベタして気持ち悪い。タープから零れる雨水の下にぼくが立って、先生にかけてもらった。雨水でも久々の水浴びは気持ち良い。
 雨が止んで日差しも強くなった頃、藤田先生がお姉ちゃんと高田君を連れてやって来た。
 藤田先生とお姉ちゃんと高田君達はさっそくお弁当を食べ始め、竹内先生は慌ててぼく達の昼ごはんを作り始めた。作りながらテングサ採りの奇怪なおじさんのことを藤田先生に話した。そのうち噂の奇怪なおじさんも上がってきた。
「俺もここで弁当を取らせてもらっていいかな。」
「どうぞ、どうぞ。」
竹内先生はおじさんにお茶を入れた。
「おいぼうず、まだメシ食ってないのか。ホラ、これ食え。」
と大きなおにぎりを一つ差し出した。
「えー、中身なあに。」
「中身か、梅干だ。」
「えー、じゃいいや。だってぼく梅干苦手なんだ。」
「なんだ梅干嫌いなのか。しょうがない奴だ。ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、・・・。」
と笑った。
 それからおじさんと竹内先生はいろんなことを話した。昔の城ヶ島のこと、海のこと、生活のこと、竹内先生の仕事のこと、城ヶ島には「菊池」という姓が多いのでみんな名前で呼び合っていること、遠泳のこと、東京のこと、ぼく達が住んでいるところのこと、以前奥さんが駒込病院に入院して48日間も城ヶ島から通ったこと等々・・・。
 そこで分かったことはおじさんの名前は「菊池さん」と言って、「城ヶ島マリーンプロダクツ」という水産加工工場をやっていること。仕事はほとんど息子さん任せで、週に二回くらい大好きな海に潜りに来るということだ。
 食後のひと休みも終ると、「もう一度行ってくるか・・・。」とおじさんは潜りに行ったので、ぼくとお姉ちゃんと藤田先生とで着いて行った。でもサザエやアワビは全然見付からなくて、少しがっかりした。
 ぼく達が先に上がり休んでいると、しばらくしておじさんは網の中いっぱいに入ったテングサを持って上がって来た。しかし浅瀬まで来るとあまりの多さにおじさんの力では担ぎ上げられず、藤田先生が手伝った。
 おじさんは採ったテングサを大事そうに浜の上へ広げて干すと、またぼく達のいるタープのところにやって来た。
「テングサからところてんの作り方、教えてやろう。」
と話し始めた。いちおうに習い終ると、
「どうだ、夏休みの宿題が一つ出来上がったろう。」
と微笑んだ。
「うん。」
「自由研究はこれにしよう。」と決めた。
「よし、じゃテングサ採り教えてやろう。」
「うん。」
今度はお姉ちゃんも一緒だから心強い。
 テングサは白い砂地のようなところに生えている細い枝状の海草がそうだ。見付けるのは簡単なんだけど、潜って採ってくるには息が続かない。そこをおじさんはしばらく潜ったまま、ボリボリと音を立てて採ってくる。「すごいなあ。」と思った。
 でももっとすごいと思ったのは、水中でのおじさんの動きは藤田先生よりも素早く、アッと言う間にタコを三匹も捕まえてしまった。そのうち二匹もらって、夜、塩ゆでにして食べた。
 ぼくとお姉ちゃんも少しはテングサが採れたし、タコもおいしかった。
「おじさんの加工場では毎日1トンくらい製氷している。クーラーボックスに入れる氷くらいならいくらでもやるから取りに来い。」
と言うおじさんの言葉に竹内先生が甘えて、お姉ちゃんとぼくと藤田先生とで氷をもらいに行った。すると軽トラックが20台くらいあって、働いている人もたくさんいた。その時おばさんがアイスクリームをご馳走してくれた。ラッキー。
 家に帰ってからトコロテンを作って食べるのも楽しみだし、今日は本当に良い一日だった。でも「今度はアワビやサザエに挑戦してみたい。」と思った。

「船長、船長、隣で寝ている『村上大輔』って子の思考サンプルも入手するんですか。」
「もちろんじゃ。地球人の子供はどんな生活をしているか調べるんじゃ。」

― 黒潮旅泳 ― 14/2.ツロージョンキャンプ

 小学校の夏休みが始まった7月21日、いつにも増して山のようなキャンプ、遠泳用品をワンボックスカーに積んで、大学生ら三人の乗った乗用車と二台で城ヶ島に向かった。22日から二泊三日、海慣れ目的のお泊まりキャンプには6歳から16歳まで15名も集まってしまい、我々にとっては嬉しい悲鳴だが、その分テントなど機材が多くなったのも確かなことだ。
 城ヶ島ではクルマからキャンプ地まで機材の運搬に毎年苦労する。今年も藤田とぼくだけだったらぜったいキャンプ地を変えているところだった。ところが今年は産水大の学生窪田君、新井君、富山君の三人が、就職活動の合間をぬってボランティアで手伝いに来てくれた。
 島では無謀なクルマの進入を防ぐために柵が出来ていて、いつものところまではクルマで入れない。またいつものキャンプ地には先約があって、より奥まで行かねばならなかった。水や食料だけでもかなりの量だ。この距離と運搬に、三人の強力学生諸君らはいずれも顎を出していた。
 それでも運搬、設営と仕事が進み、二人用から六人用まで六張ものテントが立ち並ぶと、さしずめツロージョンキャンプ村のようになった。
 予定ではゴムボート遊び、磯遊び、ダイビング教室、釣教室、ハイキング等、目白押しのプログラムを組んだものの、台風の影響でどれもこぢんまりとした内容になってしまったのが残念だった。ただ夜の花火大会や肝試しは面白かった。
 朝の体操で散歩に行ったとき、浅子佳宏君(ダウン症児)の行方不明事件発生。引率した三人の学生諸君らは顔面蒼白になって捜索した。もちろん無事発見したが、学生諸君らは全身汗まみれ。ご苦労様。
 また今回のキャンプはウンコ事件が多発した。その度ウンコ処理係の藤田は大活躍。ただ内容が内容なだけに、またプライベートな理由からも、ここでは触れないでおこう。
 生まれて初めてテントに泊まる子供。飲水などに制限のあるキャンプ生活。「面白かった。」、「また行きたい。」とはしゃぐ子供もいれば、「もう二度と行きたくない。」と零す子供もいた。しかし「つまらなかった。」と言う子供にも、一度は経験した方が良い合宿だと思う。
 早朝、まだ起床時間にならないうちに眼が覚めてしまった子供達が、みんなイスに座って無言で海を眺めていた。
♪何を考えているんだろう。雲の奴、大きな顔して空にポッカリ浮かんでる・・・。
 この歌の雲と、子供達の顔をぼくはダブらせている。普段、物思いにふける時間など少ない現代っ子に、貴重な時間だと思いそっとしておいた。

「船長、船長、みんな寝静まりました。今ならチャンスですよ。」
「よし、あの『天野貴司』という子の頭に記憶レコーダをセットするんじゃ。」
「地球人の子供の思考サンプルを入手するんですね。」

― 黒潮旅泳 ― 14/1 UFO・・・

 ピッピー、ピッピー、ピッピー、ピッピー、ピッピー、ピッピー、ピッピー、・・・

「船長、船長、太陽系三番惑星に生態探知機の反応があります。」
「ホホーォ、それでは三次元レーダーでその惑星を捕えながら、座標軸を合わせろ。その星について調べるんじゃ。」
「はい、銀河系の宇宙図によりますと、あの星は『地球』ということになっています。アッ、大気があります。水もあるようです。」
「生態反応があるなら大気や水くらいあるじゃろう。」
「ワーッ、船長、ひときわ青く輝く美しい星ですねぇ。」
「ウム、生態が生存するならこういったブループラネットでなければならない。だが本当に美しい。まるで銀河のオアシスだ。これならかなりの高度な文明を持つ地球人がいてもおかしくない・・・。」
「はい、『ヒト』がいます。地球人です。かなり高度な知的文明を持っているようです。」
「フーム、一太陽年が365.2422日か・・・。太陽までの距離といい、自転速度といい、大気や水があるならかなりの循環が考えられる。温度も温和なはずだ。よし、大気や水を調べてみろ。」
「はい、地表に近い部分の大気は密度も濃く、空気になっています。地表の平均気温は摂氏15度。東西に帯上の気流が幾筋も見えます。地球では『偏西風』と呼んでいます。また温帯の高圧帯から赤道低圧帯に向けて『貿易風』も吹いています。
 空気の組成は窒素78パーセント、酸素21パーセント、それからネオン、アルゴン、オゾン、二酸化炭素、一酸化炭素、水・・・、そんなものです。
 水の方は・・・、ワーッ、スゴイ、海です。海が見えます。地表の70パーセントは海です。しかも『海洋』には海流があります。大海を巡る大きな渦ですね。船長。
 海には塩分とさまざまな有機物があります。蛋白質、酵素、アミノ酸など・・・。まるで生物の泉だ。」
「地球を巡る大循環は地表の温度を安定させ、生物が生息するのに充分な環境を整えているわけじゃ。しかし地球人とは海に生息するのかな・・・。」
「いいえ船長、温暖な陸上の平地に、集団の社会を形成して生息しています。農業、工業、商業、海では漁業が盛んです。」
「たぶん平地には、河川があるからじゃろう。ヒトも含めて地球上全ての動植物は、水と空気と光合成が切っても切り放せない存在じゃからな。」
「あれ、船長、海洋では渦の中心がかなり西に傾いていますね。大西洋では『湾流(ガルフストリーム)』、太平洋では『黒潮』と呼ばれる急流がありますが、何故ですか。」
「あれは地球を取り巻くダイナミックな卓越した風と、地球の自転による転向力で、『西岸強化』と呼んでな、渦の軸が大きく西岸に片寄るからじゃよ。」
「ヘー、面白い。まるで大海原を流れる大河ですね。」
「他にも地球の周りを回る衛星『月』があるじゃろ。『天体潮汐』と呼んでな、海には潮の干満があるはずじゃ。そしてその潮汐力に起因する潮流も存在する。」
「へー・・・。」
「よし、地球に行って地球人の観察をしてみよう。」
「賛成、賛成、船長、中緯度で地球一の大きさの海洋『太平洋』と、地球一の広さの大陸『アジア大陸』の接点にある日本は、地球最大の海流『黒潮』が洗うから面白そうですよ。」
「よし、地球人に気付かれないよう日本に着陸しろ。」
「アイアイサー!」

 キーン、ガッタン、ガタン、ガタッ、ガタッ、ガタ、ガタ、ガ、ガ、タ、タ、タタタ・・・、

「イテテテテテ・・・、下手くそ、まったく・・・。どこに着陸したんじゃ。」
「アイタタタタ・・・、すいません船長、どうやら三浦半島の城ヶ島というところらしいです。」

 ガサ、ゴソ、ガサ、ゴソ、ガサ、ゴソ、ガサ、ゴソ・・・、

「あっ、船長、地球人の子供みたいですよ・・・、近付いてきます。」
「シーッ、お前の下手くそな着陸で気付かれたかも知れん・・・、静かにしていろ。」

「おーい、浅子佳宏ーっ。」「よし君ー。」「よしー。」
「えー、なにー。」

 ガサ、ゴソ、ガサ、ゴソ、ガサ、ゴソ、ガサ、ゴソ・・・、

「良かった。行っちゃいましたね。気付かれなかったようです。」
「フー、助かった。寿命が一年縮まったわい・・・。」
「船長、あのよし君の後、着いて行ってみましょう。」
「よし。」
「おいこら、よし、どこへ行っていたんだ。みんな心配していたんだよ。」
「朝の散歩はみんなと一緒に歩くんだ。勝手にどっか行っちゃ駄目なんだよ。」
「いました。いました。よし君を見付けましたー。」
「良かった。良かった。」
「船長、これは子供達のキャンプですよ。朝の散歩のようですね。」
「ウム。」
「どんなことやるんですかね。観察してみましょう。」

水上の走り方

あなたは水上を走れますか?

walk on water

第41回 ワイキキラフウォータースイム(ハワイ)

イベント情報です。

41st Annual Waikiki Roughwater Swim

日本人では泳ぐドクターO先生ら、多数が参加しています。

プール更衣室への提言

 新入学の時期を越して、プールにも新しい顔ぶれが増えた。水泳教室にも今の時期、まだあどけなさが残るピカピカの新1年生が加わっている。
 先日、プールの更衣室で更衣中に、そんな新1年生と思われる男の子がお母さんと一緒に入ってきた。慌てて私がお母さんに向かって「すいません。ココは男性の更衣室ですよ」と言うと、
お母さん「えっ? 駄目なんですか?」
私「駄目とか良いとかではなく、ココは男性の更衣室です!」
お母さん「ボク、お母さん、駄目なんだって」
ボク「ええっ、どうしてお母さん駄目なの?」
お母さん「ココは男の人しか入っちゃいけないんだって」
ボク「・・・・・」
お母さん「じゃ、外で着替えよう!」
と子どもを連れて更衣室を出て行った。

 こんな理由で水泳教室の終始時間帯になると、更衣室出入口の通路では子離れできない母親と親離れできない男の子でごった返している。まあマナー違反だし、更衣室への出入りは不便だし・・・。
 まだ小学校の低学年なら大目に見たとしても、すでに“お年頃”を迎えた年代の連中が更衣室前の通路での更衣は考えられない。まあ産まれながらに障害を抱えてきた子どもたちが、“お年頃”を迎えた頃に乗り越えなければならないハードルなのかもしれないが・・・。
 しかし、障害を持つ子どものお母さんが我が子を心配して男子更衣室に入ってきてしまうことも珍しくはない。そこで同じように私が「ココは男性の更衣室ですよ」と言うと、
お母さん「はい。私は大丈夫ですから」
私「いやいやいや・・・、お母さんが大丈夫でも、私たちは大丈夫ではありませんから!」
 ・・・いやはや“女は弱し、されど母は強し”を感じる瞬間である。と同時に、『これが逆転したらどうなるのであろうか』、と考えてしまう。つまり女の子を連れたお父さんが女子更衣室に入ったと想定するのだ。
 おそらく“ワイセツ行為”とか何とかで“御用”となるだろう。そう考えると男女の逆差別があるようにも思えるのだが・・・。いかがなものだろう。

 最近のプールでは、こういった問題に対応して「障害者専用更衣室」とか「家族更衣室」といった名称で特別な更衣室を設けている施設がある。ここは親子、夫婦、兄弟など、性の異なる近親者が利用できる更衣室であるが、せいぜい一組入るのが精一杯で、水泳教室終始時間帯の同時に10組程度の親子が更衣可能かというと、これには無理がある。

 ところがこういった問題を一挙に解決できる策がある。それは欧米スタイルの更衣である。
 日本の更衣スタイルは共同浴場(銭湯など:脱衣場にロッカーがある)同様に入口で男女が分かれる方式だが、欧米のプールの多くはロッカールームの中に更衣室があり、男女とも同じロッカールームを利用する。この“ロッカールームの更衣室”とは、皆さんがご存知のデパートなど衣料品売り場に設置してある“試着室”を想像していただければよい。広さはトイレほどで、ロッカールームの中にはロッカーと併設してこの更衣室がズラズラズラ~~~~っと並んでいる。
 もちろん個々の更衣室にはトイレ同様に内側から施錠が可能になっていて、前の人の更衣が終わらない(内側から鍵を開けない)限り、次の人が更衣室に入ることは出来ない。更衣室の中は椅子程度の高さの台があり、座る、更衣した衣類を置くなどが可能だ。
 つまり日本スタイルは“同姓であれば裸を見せても良い”という発想だが、欧米では“個々のプライバシーを守る”という発想の違いがあるのだろう。したがって、「同姓であっても自分の裸を他人に見られたくない」という障害者にも適応する。区別は“男女”ではなく、“個々”なのだ。もちろん必要ならば、その更衣室に性の異なる介護者の入室は可能だ。

 こんなことを知り合いの女性スイマーに話したら、「私にはちょっと抵抗があるなぁ~」とおっしゃっていた。するとこの女性はデパートの衣料品売り場での試着室は利用しないのだろうか?? デパートじゃなくてもスポーツ店、衣料量販店の試着室は男女共用なのだがなぁ~・・・。
 この辺の“女心”は私には理解できないところだが、ドーバーのビーチでは日本の“海の家”のような施設は無い。つまり更衣室もシャワー設備もトイレも無い(トイレは徒歩5分ほどのところにあるが・・・)。男も女もタオル1枚を器用に使ってビーチで更衣をするのだ。すなわち、“どこでも更衣”が可能にならなければチャネルスイマーにはなれない。
 まあ、私には“どこでも更衣”の方が“ワイセツ云々”よりもオープンで良いと思っているのだが、皆さんにはどう感じられているのだろう。

Sp7310055 2009年夏、突如ドーバーのビーチに現れた謎のアジア系、海女のようなキンちゃん。彼女も“どこでも更衣”はお手の物で、タオル1枚あればビーチでチャチャッと着替えられる。

古きゴールデンゲート海峡の横断泳

ゴールデンゲートブリッジは、日本でも「金門橋」として有名ですね。

アメリカ、サンフランシスコにあるこのゴールデンゲート海峡を、橋が造られる26年前(1911年)に、横断泳を成功させた最初の女性(Hazel Lagenour)に関するエピソードです。

ビデオもあります。

必見の価値がありますよ!!

NYC SWIM

NYC SWIM、ニューヨークのOWSサイトです。

ドーバーのビーチで練習が始まりました。

5月1日(土)からドーバーのビーチでチャネルスイマーの水泳練習が始まりました。

今年はこの練習が“登録制”になりました。登録申請書に必要事項を記入し、費用を支払うとカードがもらえます。費用は次の通り(いずれも一人当りの価格です)。

  • ソロスイマー   £20
  • リレースイマー  £5
  • その他のスイマー £3(栄養補給有)
  • その他のスイマー £2(栄養補給無)

このビーチ練習は、9月までの毎週末(土日)に行われます。カードと費用の有効期限は今年の9月末日の週末までです。

カードが無ければ指定されたスイムキャップは借りられません。指定されたスイムキャップの無い人はサポートの対象外です。

尚、この費用はビーチのサポートクルーの経費に当てられます。ですが、あくまでも参加は自主的に自己責任で行われており、スイマーの安全を保障しているものではありません。

このことは登録申請書に書いてあり、「同意」のところに署名をしなければなりません。

もし近い将来に「ドーバーを泳ごう」と計画している方なら、ドーバーがどんなところか試しに行って練習してくるのも良いかもしれませんね。

ちなみにこの練習に参加するに当たって、ドーバー泳の公認団体が“CSA Ltd”とか“CS&PF”とかは問われていません。同様にドーバーを泳ぐつもりではない方も参加できます。
つまりどなたでも参加できます。

登録申請書が欲しい方は、私までご一報下さい。

現在、ドーバーの水温は9℃代。気温は最高で10℃代です。

ドーバーは真夏でも気温が30℃を越すことが珍しいくらいです。

一方水温は、9月頃が最も高く、18℃くらい。20℃を越すことは滅多にありません。

5月1、2日(土日)の天候は晴れたり曇ったり雨。まあドーバーらしいめまぐるしく変化する天気です。

そんな中を泳ぐ方がスゴク集まる(土曜は68名)のだからスゴイ!!

日本のゴールデンウィークで「暖かくなった」なんて言っていたらバチが当たってしまう??

30087_10150157422880290_857340289_1 スイマーが集まり始めました。

27964_1403573606056_1133840637_1202 登録をしているところです。

30087_10150157422910290_857340289_1 登録を終えた者が続々と集まっています。

30087_10150157423045290_857340289_1 フリーダ(座っている女性)に何時間泳ぐか申告し、スイムキャップをもらいます。

27964_1403573726059_1133840637_1202 スイムキャップをもらいました。

27964_1403573926064_1133840637_1202 ワセリンを塗ってもらえるなど、サービスを受けられます。

27964_1403573846062_1133840637_1202 準備は良いかな?

27964_1403574166070_1133840637_1202 いざ、泳ぎに行かん!!(夏の撮影ではありません。はい!)

30087_10150157422980290_857340289_2 寒い、寒い・・・。

27964_1403589726459_1133840637_1202 上がってくれば、やはり寒い!!!

30087_10150157423030290_857340289_1 暖を取ったらまた泳ぎに行くよ!!

30087_10150157422915290_857340289_1 ケヴィン(チャネルキングです。今までに34回ドーバーを泳いで渡りました。)

30087_10150157423035290_857340289_1 フランク(中央)はドーバー泳の本を書いている泳ぐ作家です。もちろん以前にキンちゃんの取材もありましたよ。

30087_10150157422900290_857340289_1 かしまし娘ではありません。左からリズ、キャサリン、ローラ、スイマー兼ボランティアです。

30087_10150157422940290_857340289_1 サム(サマンサ)とバリー。ボランティアです。

30087_10150157423055290_857340289_1 左からバリー、エマ、ルイスです。今年はエマ(中央)が中心になって練習が開かれています。

30087_10150157422890290_857340289_1 写真の提供者、サリー(中央のご婦人)と仲間たち。

27964_1403588686433_1133840637_1202 もう一人の写真提供者、カトリーナ。彼女はスレンダーで背が高く、それでいて寒さに強いのが不思議です。

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